紀王妃陸氏碑

 陸氏は河南省洛陽の人で、太宗の第10子李慎(紀王)の先妃です。紀王は貞観中に襄州刺史となり、文明初め(684)に太子太史・貝州刺史に遷じました。
 陸氏は、もと代北の鮮卑の出身で、歩六孤氏と称しました。孝文帝の洛陽への遷都にともない、中国風に陸氏と改め、新たに河南洛陽に属籍することになりました。陸氏としては、六朝以来の呉郡陸氏が著名ですが、これとは系譜を異にしています。
 陸氏は貞観5年(631)に生まれ、13歳のとき紀王李慎の妃として冊立され、東平郡王李続ら6男と江陵県主ら8女を生み、麟徳2年(665)6月に河東道沢州の館舎で亡くなりました。35歳でした。夫君の紀王李慎が邢(ケイ)州刺史に赴任する際に随行し、その途中で死去したと考えられます。
 詔により昭陵に陪葬することが許され、翌年乾封元年(666)12月に、「陵南23里」に埋葬されたといいます。
 紀王李慎は、垂拱4年(688)に越王李貞の謀起に連座し、姓を虺(キ)氏に改めた上で嶺表に流刑の身となり、道中の蒲州で没しました。陸妃の死後、22年にあたります。
 中宗神龍元年(705)に至り、武則天の死去とともに、ようやく諸王の名誉が回復され、紀王李慎も昭陵に陪葬されることになったと推測されます。
 陸妃の墓所は、元代の李好文撰『長安志図』中巻所載の「唐昭陵図」に描かれ、また最近の調査によりその所在場所と規模が確認されました。
 墓形は円錐をなし、高さ5m、直径は24mです。ところが『唐会要』巻21所載の「昭陵陪葬名氏」には、紀王李慎のみが録され、陸妃は見当たりません。あるいは、紀王李慎と合葬するつもりだったのかもしれません。
 また、碑文では「陵南23里」に埋葬されたとありますが、清朝末期の『金石萃編』巻56によれば「陵南10里」に所在していました。唐代の1里は560m、とすると約12.9qです。清朝1里は576m、とすると5.76qで、両者の記事にはかなりの異同があります。
 碑は乾封元年(666)の立碑で、37行、行73字、亀座の上に立てられました。撰者・筆者はともに不明です。上半は摩滅が甚だしいですが、痩硬な楷書で、厳整な結構を特色とします。碑額には陰文篆書で「大唐紀国故先妃陸氏之碑銘」と、3行、行4字に刻されています。