許洛仁碑

 許洛仁(キョラクジン)の伝記は、両『唐書』の兄の許世緒伝に附伝しますが、きわめて簡略です。
 碑文によると、あざなは濟で、幼名を洛児といい、博陵安喜(河北省定県)の人です。後に晋陽(山西省)に寄居したことから『唐書』では并州の人としています。
 隋末に兄とともに李淵の幕下に入り、李淵が晋陽より起つと、それに従って天下平定に武勲を立てました。
 武徳9年(626)に大明府別駕を授けられ、累遷して貞観18年(644)には左監門将軍、さらに官は冠軍大将軍・行左監門(宮門守護)大将軍に至りました。
 許洛仁は隋の仁寿宮を修復した九成宮(萬年宮)が完成した折、馬を1匹を進呈しました。太宗李世民は許洛仁の献じた良馬が気に入り、これを「洛仁」と名づけました。この馬こそ、昭陵六駿の1つ、「拳毛」で、太宗が劉黒闥を討ったときの黄毛の名馬です。前に6本、肩に3本の矢を受けました。
 碑文によると、太宗は許洛仁の誠節に感じて、この馬の石像を作って昭陵の北門に置きました。現在、陜西省博物館の石刻芸術室に展示されている「昭陵六駿」の拳毛の原石にも何本かの矢が刺さった跡がついています。
 許洛仁は、龍朔2年(662)、85歳で亡くなりました。『旧唐書』に「永徽初卒」とあるのは、誤りです。没後、使持節・都督代忻朔蔚四州諸軍事・代州刺史を贈られ、勇と諡され、元従の功臣として昭陵に陪葬されました。
 立碑年月・撰書者ともに不明です。39行、行77字の楷書で、碑の下半分は欠落して1700余字を残すのみです。碑額には篆書陽文で「大唐故冠軍大将軍代州都監許公之碑」とあります。
 書法は筆勢が強く、力がこもっています。その書風にはなお隋碑の名残りがあり、結体は背勢のものと向勢のもの、その双方が混ざったものが見られます。また、行書の筆意も加わり、波磔の鋭さは、晩年の顔真卿を思わせます。