房仁裕碑

 房仁裕については、詳しい記載は見付かりません。ただ、碑文から、官は兵部尚書に至り、顕慶2年(657)に亡くなり、同年にこの碑が立てられたことが知られます。
 撰文は崔融で全節の人です。あざなは安成。文章に長け八科高第に擢し、袁州刺史・国子司業を拝しました。卒して文と諡されました。
 筆者は房琳ですが、彼の履歴も両『唐書』に見えません。どうやら房仁裕の曾孫で国子監丞(従六品下)として国家最高学府の秘書を勤めていたようです。
 この碑も磨滅が甚だしいですが、その書は歐陽詢の骨力を含み、褚遂良の遒媚さが加わり清謹娟秀で、たいへん上品な感じを受けます。
 碑額には3行、行4字で「大唐故清河房忠公神道之碑」とあります。