阿史那貞公墓誌・蓋

 この墓誌銘は、1972年に阿史那忠墓の発掘調査が行われた際、陜西省礼泉県西周村の地下の墓室から妻の定襄県主の墓誌蓋とともに出土しました。
 これらの新資料により、碑文の欠損のみならず、両『唐書』の記事を補正することができました。
 蓋には篆書陽刻で「大唐故右驍衛大将軍贈荊州大都督上柱国薛国公阿史那貞公墓誌之銘」と6行、行5字に記され、蓋の周りは繊細な蔓草雕で飾られています。
 墓誌には「唐故左驍衛大将軍兼検校羽林軍贈鎮軍大将軍荊州大都督上柱国薛国公阿史那貞公墓誌銘并序」と題されています。一辺が58pの正方形に、陰刻楷書で44行、行44字、計1759字の銘文で、保存の状態はきわめて良好です。
 幸いなことに墓誌の撰者は「秘書少監・清河・崔行功(サイコウコウ)撰」とあり、判明しています。清河武城の崔氏は、後漢以来の門閥を誇る当代一流の名族で、崔行功は、高宗の頃に名を馳せた文豪です。高宗時代にあっては、朝廷における大手筆(ダイシュヒツ すぐれた文章を書く腕まえを持つ人)の多くは、崔行功と蘭台侍郎李懐儼の2人が詞文の創作にあたっています。『旧唐書』巻190上 文苑上「崔行功伝」によると、崔行功は、咸亨年間(670〜674)に秘書少監に在官し、上元元年(674)に亡くなりました。
 誌文によると、阿史那忠の曾祖は大原、祖父は邕周といい、どちらも本国の可汗であったといいます。
 阿史那忠は「上元2年5月24日を以て洛陽尚善里の私弟において薨(ミマカ)る」とあり、遺骸は京師長安に移送され、同年10月15日に昭陵に陪葬されたと記しています。
 《阿史那忠碑》の解説では撰書人ともに不明としましたが、どうやら撰者は崔行功のように思われます。しかし、立碑年・撰者とも碑と墓誌と同じですが、その書風はまったく異なっていて、どちらの筆者も判りません。
 誌文は、整斉とした腴潤な書風ですが、さほどの書格はありません。碑文の書が唐初における歐陽詢・虞世南の勁健の書風に近く、欧と虞とのほぼ中間に位置するのに対し、誌文の方は豊肥の書風に属します。
 高宗の治世になると、歐陽詢・虞世南の書法に代って、褚遂良の書法が尊ばれるようになります。誌文の書風は、南朝の系統を引く褚遂良の影響に基づくものなのか、あるいはそれ以外の理由によるものなのか、判断できません。
 また、阿史那忠墓誌銘・蓋とともに、妻の定襄県主の墓誌銘の蓋のみが同時に出土しました。蓋には「大唐故定襄県主之銘」とあります。彼女は阿史那忠に先立って永徽4年(653)に亡くなり、昭陵に先葬されました。その際は「昭陵の下に先葬す」と詩文に銘(シル)されています。
 約20年を経た上元2年10月に及んで、阿史那忠と合葬されました。《阿史那忠墓誌》によれば妻の定襄県主は、のちに太宗の皇妃となった韋氏の先夫李aとの子です。誌文には、「夫人渤海李氏、隋の戸部尚書〔李〕雄の孫、斉王〔楊暎(灼帝の子)〕の友〔李〕aの女。母は京兆韋氏、鄖(ウン)国公〔章〕孝寛の孫、陳州刺史〔韋〕円成の女。夫人は又た紀王〔李〕慎の同母姉」と記されています。彼女は渤海李氏の出身で、生母は京兆韋氏、生母の韋氏は、最初李aに嫁いで定襄県主(阿史那忠夫人)を生み、ついで太宗の皇妃となって紀王李慎と臨川公主らを生んだことになります。
 単純な疑問ですが、なぜ生母の韋氏が改嫁したのか、なぜ実父が李aである娘が県主にされたのか、不明です。
 なお、阿史那忠墓発掘に際して、墓壙中の壁画29幅が出土しました。その模写10幅が昭和55年日本で開催された「西安古代金石拓本と壁画展」で紹介されました。