阿史那忠碑

 阿史那(アシナ)とは突厥(トツケツ)族の始祖の姓で、代々可汗を世襲する貴種の氏族です。突厥族は、6世紀の半ばに伊利可汗(初代可汗。在位552〜553)が現われ、北アジアに遊牧国家を形成しました。この当初からすでに東トルコと西トルコとに分かれていました。
 唐初の貞観3年(629)に至り、太宗は東トルコの内紛に乗じて李靖を派遣して頡利可汗(12代 在位620?〜630)を征伐させました。
 阿史那忠は、啓民可汗の弟で、翌年の貞観4年、頡利可汗を捕虜にして献上しました。また、父の阿史耶蘇尼失(ソジシツ 碑文ではただ「蘇」に作る)は部衆を挙げて唐朝に帰し、左驍衛(御所の守りを任とする禁衛の一つ)大将軍・寧州都督を拝し、懐徳元王に封建されました。
 阿史那忠は左屯衛将軍となり、定襄県主を妻(メアワ)され、忠の名を賜わりました。あざなは義節です。
 しばらくして、左賢王となり、出塞しました。帰国後、中国を恩慕して入侍することを懇請しました。それを見た使者は、必ず涙して入侍を請い、それが許されたとあります。
 阿史那忠は死去するまで45年間の長きにわたり武人としての要職にあった重臣で、宿衛に励み、唐の多民族国家の安定統一に顕著な功績をあげ、薛国公に封ぜられ、右驍衛大将軍を拝しました。
 上元2年(675)に65歳で亡くなり、鎮軍大将軍を贈られ、貞と諡されました。
 この碑の立碑年月・撰書人ともに不明です。碑文は33行、行82字、約2600字からなる楷書ですが、半ば剥落しています。識別できる文字は全体の6割の1700字位です。その書法は清麗遒勁で、かなり王羲之・獻之の風神があります。
 碑額には「大唐故右驍衛大将軍薛国貞公阿史那府君之碑」と5行、行4字、陽文篆書で刻されています。
 この碑について、趙崡の『石墨鐫華』では、「碑泐(ロク)し、其の存する者稍豆盧寛碑に倍す。亦た額を以て之を識し、書法更に勁抜、永興(虞世南)河南(褚)の間に在り、惜しむらくは撰書倶に名氏の考う可き無きのみ」と評しています。
 楊守敬『平碑記』では、「筆意絶だ佳、鈍根は万全の良薬、又た古人は一筆も側鋒(側筆)せずの説を証するに足る。(書者は明らかではないが)当に之是れ馮承素・諸葛思貞ら諸人の筆なるべし。蓋し其れ蘭亭の堂奥に深く入るものなり(太宗の命によって蘭亭序の搨摸にあたった人々の筆になったものであろう)」といっています。
 碑の一番下の横数行しか明確な文字は残っていませんが、それらを見る限りでは、方筆でじっくりと書かれています。そのためか、太めでどっしりとした、唐の雰囲気を醸し出しています。