杜君綽碑

  杜君綽(トクンシャク)の伝は両『唐書』に見つかりません。碑文によると、祖父の謐(ヒツ)は北斉のとき秀才に挙げられて、中山群功曹となり、さらにある郡の県令に移りました。父は使持節・汝州諸軍事・汝州刺史を贈官されました。
 碑文には、君綽の事跡と遷授の官位とを詳細に記していますが、欠字があって不明なところが多くあります。
 君綽は、義寧年間の初め(617)に唐側につき、鳳邸(李淵の藩邸)に仕えて忠動を励みました。そののち秦王府に移り、玄武門の変の9名の主要将領の1人として活躍しました。
 太宗が即位すると、忠武将軍・行左監門中郎将・加護軍から兼領軍将軍に進んで宮城警護などにあたり、高宗の龍朔2年(662)左戎衛大将軍・兼太子左典戎衛率を授けられました。
 ところがその年の10月25日、出勤して朝堂のなかで死去しました。62歳でした。高宗は嘆き悲しんで廃朝すること2日、使持節・都督荊z岳明四州諸軍事・荊州刺史を贈り、昭陵に陪葬させました。翌3年2月18日、昭陵の東南10里に葬り、襄と諡しました。碑額には篆書で5行35字、「大唐故左戎衛大将軍兼太子左典戎衛率贈荊州都督上柱国懐寧県開国襄公杜公碑」とあります。
 碑は、麟徳元年(664)に立てられました。碑高3.61m、楷書で39行、行76字。碑の上部は磨滅が激しいですが、下半分は土中に埋没していたため、半分くらいの文字は綺麗に残っています。
 碑の末尾に「□□元□□□甲子□□月□□□□□日景子建。殷王府□□□□□□□弘文館高正臣書。萬宝哲刻字」とあります。
 この碑が建てられたのは、『昭陵碑録』では龍朔2年(662)としますが、「甲子」は麟徳元年(664)に当たることから、『昭陵碑録』が誤りであることが判ります。
 撰文は李儼です。李儼は、唐の宰相張濬少の子で、昭宗から姓を賜わりました。官位は朱全忠を討伐して、中書令に至りました。
 筆者は高正臣で、張懐瓘の『書断』によると、広平(河北省永年)の人です。官位は襄州刺史、衛尉少卿に至り、王羲之の法を習い、睿宗はその書を愛したといいます。著書に『高氏三宴詩集』があります。三宴とは陳子昂・周彦暉・長孫正隠のことです。
 また、碑文に見える「殷王府」の肩書きは、睿宗の藩邸であって、高正臣は龍朔2年11月にこれに封ぜられています。
 「弘文館」は唐初に置かれた宮廷図書館で、初めは修文館といいました。『唐大典』巻8によると、貞観元年(627)太宗は勅して、中央に勤める五品以上の文武官の子弟で、書を学ぶことの好きな者、書の素質のある者は、弘文館内で書を学ぶことを許し、法書(手本)を宮中から出して貸し与えました。この年だけで24人の入館者があり、虞世南と歐陽詢に命じて彼等に楷法を教示せしめました。
 高正臣もその学生であったと見られ、したがってこの碑の書法は、当時における標準的なものといえます。彼は楷・行・草書に巧みで、現在世に伝わるものに、上元3年(676)の《明征君碑》のほか、《燕妃碑》とこの《杜君綽碑》があります。
 高正臣の書については余り高い評価はありません。唐の張懐瓘『書断』では、「少卿(高正臣)は右軍(王羲之)を習らって、脂肉が少し多く、骨気がやや少ない」と、高正臣の書は褚遂良の亜流だといっています。また、清の昌熾の『語石』では、「高正臣は風骨重きを凝らし清光を内に含む。これ良くチョ遂良を学ぶ」と評しています。
 しかし、この碑の書風は極めて秀逸で、むしろ隋の墓誌銘に近く感じます。それでいて懐が広く、整斉な内に流れるリズムがあります。同時期の儒学家李玄植の《李孟常碑》と近似しており、個人的には昭陵諸碑の内のトップにあげる一つです。