李靖碑

 李靖は李勣とならび称せられる太宗24功臣の1人です。立派な体格で堂々としており、初唐の名将・軍事家として名を馳せました。あざなは薬師、京兆三原(陜西省三原)の人です。その著書に『李衞公兵法』があります。
 李靖は、はじめ隋に仕え煬帝の大業年間末年に、馬邑郡(バユウ 山西省朔県)の丞(郡守の次官)となりました。ちょうどその時李淵が太原(山西省太原市)の留守(天子不在の陪都(副都)に置かれ、留守を総轄する官)となりました。李靖は、李淵の人物を観察し、四方の諸国を攻略しようとする謀反を知りました。そこで自分から事変を上申すると称して煬帝のいる江都(江蘇省江都県)へ赴こうとし、長安に至りましたが、道がふさがって通じないために断念しました。
 李淵が長安を攻略した時、李靖を捕らえて斬ろうとしました。その時、李靖は大声で叫んで、「公が義兵を起こしたのは、暴乱を除くためである。しかるに大事を成そうとしないで、私怨によって壮士を斬るのか」と言いました。李世民もまた罪を許すことを願いました。李淵はそこで李靖を釈放し、逆に行軍総管を拝しました。武徳年中には、蕭銑(ショウセン)・輔公祏(ホコウセキ)を平定した功績により、揚州大都督府の長史(10州の1つ揚州(江蘇省江都県の付近)の軍府の最高位)となりました。
 太宗が即位すると刑部尚書に任ぜられ、貞観2年には本官をもって検校中書令を授かりました。貞観3年には兵部尚書に転じ、代州道(山西省代県)の行軍総管となり、進んで突厥の定襄城を撃破しました。そのため突厥の諸部落は皆、砂漠の北へと遁走しました。突利可汗は降伏し、頡利可汗は大いに恐れました。貞観4年には、突厥の頡利可汗は退いて鉄山に籠り、使者を派遣し、入朝して罪を謝し、国をあげて服従したいと願い出ました。
 頡利可汗は外面は降伏を願っても、内心は猶予していました。そこで詔して鴻臚卿(宮中で朝賀や慶弔の儀式や来朝した異民族の接待を司る官署の長官)の唐倹(トウケン)を派遣して説得を計りました。その時、李靖は副将の張公謹(チョウコウキン)に言いました。「詔使が頡利の所に到れば、敵は必ず警戒を緩めるであろう。そこで精鋭の騎兵を選んで20日の兵糧を持ち、兵を率いて白道から襲撃しよう」と。張公謹が言うには、「既にその降伏を許し、詔使があそこにいる。討撃するのはよろしくない」と。李靖が言いました。「これこそ戦いの好機である。時機を失してはならない」と。そのまま軍を率いて突進し、陰山に至り、頡利の斥候(物見の兵士)の千を超える陣営に出会い、皆を捕虜にして軍に随行させました。
 頡利は詔使の唐倹を見て大いに喜び、李靖の官軍が至ることを予期しませんでした。李靖の先陣は霧に乗じて進み、頡利の本営から7里に接近しました。ここにおいて頡利は始めて気付き、兵を列ねましたが、とても陣形を整えることができず、単騎で逃走し、敵兵に敗けて散り散りになりました。男女10余万人を捕虜にし、境界線を陰山の北からゴビ砂漠までに拡張して、ついに突厥を滅ぼしました。やがて頡利可汗は別の部落で捕えられ、残りの軍勢は残らず降伏しました。
 太宗は非常に喜び、振り返って左右の侍臣たちに語って言われました。「我はこういう言葉を聞いている。「君主が憂い悩めば、臣下は自分の屈辱と思い、君主が屈辱を受ければ、臣下は命を捨ててその恥をすすぐ」と。昔、我が国家が創業の初めの頃は、突厥が強盛で押さえることができなかった。太上皇(高祖〉は人民のための理由から、やむを得ず頡利に対して臣と称した。この屈辱に対して、我は常に心を痛め頭を痛めていた。そのため匈奴を滅ぼそうと志し、座っても席に落ち着いていられず、食べても味を旨いと感じないくらいであった。ところが今、まあ、一部の軍隊を動かしただけで、どこでも勝利をあげ、単于(匈奴の王)は頭を地につけて敬礼して降伏した。太上皇の恥はぬぐい去ることができたであろう」と。群臣たちは、皆、万歳を唱えました。
 李靖は代国公に封ぜられ、尚書右僕射を任ぜられ、実封500戸を賜りました。貞観8年、李靖は64歳という高齢をおして、また西方に軍を進めて吐谷渾(トヨクコン)を征し、その国を大破しました。そこで改めて衞国公に封ぜられました。 貞観23年(649)5月、79歳で病死し、司徒・并州都督を贈られ、景武と諡されました。

李靖像 (日本語版『歴代君臣図像』より)

 李靖の墓は、山底村の南、昭陵から6qの所に、中央に円錐形、その両側に長方形の、3個の盛土を組み合わせた形に造成されました。李靖墓を「下山冢」と呼ぶのに対し、李勣墓は「上山冢」と呼ばれています。
 また、『旧唐書』によると、彼の妻子は貞観14年に亡くなり、太宗の詔により、前漢の武帝の将軍で匈奴を討った衛青・霍去病の古事に習って、象鉄山と積石山に祁連山(大きい連なった山)の形に作られたといいます。
 碑は顯慶3年(658〕5月の建碑で、楷書で39行、毎行82字。碑側は蔓草花紋で飾られています。碑高4.3mで、碑額には陰文篆書で「唐故開府儀同三司尚書右僕射司徒衛景武公碑」の20字が刻されています。下半分は摩滅が激しく、撰書人の名は判りません。
 しかし幸いに碑陰に刻された元祐4年(1089)の游師雄の跋によって、撰者は許敬宗、筆者は王知敬(《尉遲敬徳碑》と同じ)と知り得ます。
 王知敬は貞観13年(639)校書郎として、全国から集めた王羲之の書を、褚遂良と共に鑑定したと言われています。高宗時代には一流の書人として認められこの碑を書き、武則天時代には太子家令・麟台少監(リンダイショウカン)となり、太子家令に官したことから、「王家令」とも称しました。
 趙崡の『石墨鐫華』に、「知敬の書は当時に在りて自ら名を知られるに因りて、評者謂う、房玄齢・殷仲容を以って伯仲すと。余、此の碑を観るに、遒美は真に是れ歐陽率更(詢)・虞永興(世南)の匹敵なり」とありますが、王知敬は、殷仲容・房玄齢と肩をならべ、虞世南の神韻を具えるとともに、歐陽詢に極めて近似しています。
 武則天がかつて詔(ミコトノリ)し、一人に一寺の額を署させたとき、殷仲容は資聖寺に題し、王知敬は清禅寺に題して共に独絶と称され、題署においては、殷仲容と並び称されました。草・行書に巧みで、特に草書に秀でていました。
 各体の書をよくしたと伝わっていますが、この碑にみられる楷書と、その篆額とによって十分にその実力の程が理解できます。彼の楷書は《高士廉碑》の趙模に比べ、やや偏平な感じがしますが、結体も整い、力も充実していて堂々としています。欧・虞の影響を受けたものの中で、最も優秀なものの一つとされています。
 張懐瓘の『書断』には、「膚(ハダ)と骨を兼ね備えている点では、武具で身を固め、十分に防衛のそなえをし、翼を広げて、いつでも飛び立つことができるようにしているのと同じである」とあり、高く評価されています。