馬周碑

 馬周は、あざなは賓王、清河荏平(シヘイ 山東省荏平県)の人です。伝は『旧唐書』巻74・『新唐書』巻98にあります。
 馬周は若くして身よりがなく貧しかったそうですが、学問を好み、とくに詩伝に精しかったとあります。しかし自由奔放な性格で、武徳年間(618〜626)に州学の助教に補されましたが、日々酒にひたってまったく講義をしなかったそうです。
 『貞観政要』(巻2任賢第3)・『旧唐書』(巻74馬周伝)によると、貞観5年に、都の長安に来て、中郎将(将軍に次ぐ武官)の常何(ジョウカ)の家に止宿していました。その時、太宗は百官たちに上書して政治の利害を言わせました。馬周は常何のために良い政策20余事を述べ、それを上奏させました。
 その政策は、すべて太宗の御意にかないました。太宗は常何にそれ程の能力があることを怪しみ、常何に尋ねました。常何はお答えして、「これは私の考え出したものではございません。私の家の食客の馬周でございます」と。太宗はその日のうちに馬周お召しになった。太宗は待ちかねて4度も使者を派遣して催促しました。馬周がお目通りした時、太宗はその人物才能が優れていることを非常に喜美ました。そして、馬周を門下省に詰めさせ、まもなく監察御史(御史台に属し、官吏の違法を取り締まり、地方官庁の行政状態を巡察する官)を授け、中書舎人(中書省に属し、詔勅の作成にあたる)に任じました。
 馬周は、その場に応じた巧みな弁舌があり、意見を申し述べることに長じ、深く物事の根本を見抜いていました。それゆえ、その言動はあたらないことはありませんでした。太宗はかつて、「我は馬周において、しぱらくでも見ないと、すぐに思い出す」と言われました。貞観18年に、昇進して中書令に遷り、太子右庶子を兼ねました。
 馬周は中書省と太子府との両宮に職を奉じ、処置が公平適切で、非常に当時の人から良い評判を得ました。学問を好み、『詩経』・『春秋』を書くしました。また、本官のまま吏部尚書を兼ねました。
 太宗があるとき左右の侍臣たちに言われました。「馬周は物箏を処理することが敏速で、性質は節操堅く行いが正しく、人物の優劣を評論する場合には、道義を守って直言し、その多くが我が意にかなっている。実にこの人の力によって共に当代の政治を安らかにすることができるのである」と。その後銀青光禄大夫となり、碑文によれば、貞観22年(648)正月9日、万年県隆慶里の第で、48歳で病死しました。その年の3月4日、太宗は彼を昭陵に陪葬し、絹布300段を贈って葬事を助け、幽州都督を贈りました。その後高宗の永徽2年(651)、詔により尚書右僕射・高唐県開国公・食邑1000戸を追贈されました。
 碑が立てられたのは、『金石萃編』では贈爵と同じ永徽2年(651)とします。また、宋の趙明誠『金石録』では上元元年(674)10月で、「殷仲容の八分書、許敬宗の撰」としています。
 碑高3.6m、本文は隷書で37行、行80余字ですが、碑文は下部の摩滅が甚だしく正確には数えられず、左側上部に200字ほどしか残っていません。篆額は陽文篆書で4行、行3字に「大唐故中書令高唐馬公之碑」とあります。
 この書は、確かに美しく整っていますが俗ぽく、作為が目立として、日本ではあまり良く言われていません。
 しかし、同じ殷仲容が隷書で書いたという《>褚亮碑》とは同時期の、多分、数年しか違わない立碑と思われます。《褚亮碑》が《礼器碑》を思わせる古雅あふれる風格を漂わせているのに対し、馬周碑は《曹子建碑》を思わせる書き方で、楷書と隷書の双方の筆意が混在しています。
 従来こうした書き方は、隷書から楷書への転換期のものとして扱われています。しかし、200〜300年後の時期にも見られる事からして、当時存在した、あるいは別の一体なのかもしれません。とすれば、行書に草書の混ざったものを「行草」と呼ぶように、この体を「楷隷」とでも呼ぶべきかと思います。