高士廉碑

  高士廉、諱は倹ですが、あざなの士廉で通っています。両『唐書』に伝があり碑文の欠けたところをいくらか補えます。高氏は渤海(河北省)の出身で、曾祖の翻は北魏に仕えて太尉となり、祖の岳は北斉高祖の従父弟にあたり清河王に封ぜられました。父の高勱(バイ)はその王爵を継ぎましたが、のちに楽安王に改封されました。
 高士廉は、賢くて度量があり、一度読んだ書物は暗誦していたといいます。隋の仁寿年間(601〜604)に文才甲科に挙げられて治礼部になりましたが、友人の事件に連座して嶺南に流されました。
 唐の李淵が嶺南を領有すると来降し、揚州牧であった李世民の属僚となり、重んぜられました。玄武門の変では李世民のために働き、世民が皇太子になると、武徳年間に右庶子となり、益州大都督府長史に進みました。やがて侍中に進み、義興郡公に封ぜられました。地方官を歴任の後、吏部尚書となり、太宗が即位すると、許国公に封ぜられ、尚書右僕射(宰相)に遷じました。
 貞観21年(647)、72歳で亡くなりました。司徒・并州都督を贈られ、文賦と諡され、夫人の鮮于氏とともに昭陵に陪葬されました。太宗の24功臣の1人です。なお、卒年を『旧唐書』は72歳、『新唐書』は71歳としますが、碑文には記してなく、どちらが正しいのか明らかではありません。
 高士廉は太宗の命を受けて、当時の貴族番付である『大唐氏族志』100巻を著して天下に頒布し、また、房玄齢らとともに一大類書『文思博要』1200巻を編纂したことでも有名です。
 この碑は、『集古録目』巻5にすでに著録され、それには立碑の年を貞観21年としていますが、碑文中に「太宗廟庭に配享(ハイキョウ ほかの神を合わせて祭ること)」とか「文皇帝」とかが見えることから、太宗の没後、高宗時の建立であることが明らかで、『昭陵碑録』は永徽6年(655)2月としています。
 碑の本文は37行、行81字の楷書で、碑額は4行、行4字、16字の陰文篆書です。
 碑の撰文は許敬宗(《尉遲敬徳碑》と同じ)です。許敬宗は隋の礼部侍郎を勤めた許善心の子にあたります。父の許善心が宇文化及に害せられるや、流転して李密に仕えました。李密は許敬宗を元帥府の記室として、魏徴と共にその任に当てました。後に、太宗がその名を聞き、召して秦王府の学士に取り立てました。貞観8年(634)に著作郎兼修国史となり、中書舎人に進みました。
 しかし貞観10年、文徳皇后の葬俄の席で歐陽詞の姿を見て大笑いしたことで洪州都督府司馬に左遍されました。その後、給事中・兼修国史に累遷し、貞観17年、『武徳貞観実録』を修成し、高陽県男に封ぜられました。
 高宗が皇太子の時、太子右庶子を勤め、永徽3年衛尉卿となり、弘文館学士・兼修国史を加えられ、永徽6年礼部尚書を拝しました。
 高宗が王皇后を廃し、武昭儀を立てようとした時、許敬宗は李義府と謀ってこれに反対する者を罪におとしいれ、直言の士を追い払いました。許敬宗が奸臣(悪い心を持った家臣)であることは明らかです。
 しかし、文章に巧みで書に功(タ)けていたことでは賞賛されています。許敬宗の書は、高宗が官名を自署するように命じた《萬年宮銘》の碑陰に、李義府と共に残されています。

萬年宮銘 (麟游県九成宮鎮にて)

 この碑の筆者は趙模です。趙模は太宗の頃活躍した搨書手(トウショジン)です。搨書手とは、コピー機はもちろんカメラも印刷機もなかった時代、複製を作る官で、弘文館や集賢殿書院などに設けられ、しきうつし(コピー)の技に功けていました。趙模のほか、馮承素(フウショウソ)・韓道政(カンドウセイ)・諸葛貞(ショカツテイ)・湯普徹(トウフテツ)らが知られています。かれらの技の精巧さは、今日に伝存する搨摸の墨跡によっても窺えます。馮承素摸の《王羲之蘭亭序神龍半印本》は印象にあるかと思いますが、趙模も太宗の命で《蘭亭序》を臨書しています。
 この碑の書も典雅遒動なものといわれますが、今はほとんどが剥落して上方に少し見える字があるだけです。拓本を見る限りでは、隋の墓誌銘を思わせる整斉なものですが、それでいて懐(フトコロ)の広さを感じさせ、歐陽詢に見える空間の処理がなされています。
 また、碑側には六代の孫、元祐などの題記があります。