房玄齢碑

 房玄齢は、あざなを喬といい、斉(セイ)州臨淄(リンシ 山東省淄傳市東北)の人です。幼名を警敏といい、典籍に明るく、文章に巧みでした。書は草・隷を得意としました。
 初め隋に仕え、18歳にして進士となり隰城尉(山西省汾陽県の属官)を授かりました。しかし、ある事件の罪におちいって名籍から除かれて上郡に移されました。
 李世民が渭北地方を攻めたおり、玄齢は馬の鞭(ムチ)を手にして陣営の門に面会を求めました。李世民は一度会っただけで意気投合し、幼なじみのように親密になり、渭北道(渭水の北。現在の陜西省)の行軍記室参軍(文書を起草する書記官。参軍の中で最も重要な職)に任じ、臨淄侯に封じました。玄齢は知己の主にめぐり会ったことを喜び、心と力のあらん限りを尽くしました。
 この頃は敵が平定されるごとに、多くの人々は先を争って敵の城中の金銀財宝を求めました。しかし、玄齢だけは先ず敵の中のひとかどの人物を集めて李世民の幕府に差し出しました。また知謀の臣や勇猛の将があれば、内密に堅く結合して、それぞれに必死の努力を尽くさせました。
 次々と進んで秦王府(李世民の幕府)の18学士の1人として記室を授けられ、陜東道の行合考功郎中(臨時に地方で征討事務などをとる所で官吏の勤務成績を調べる部局の長)を兼ねました。
 玄齢は秦王府にいること10余年、常に文書の起草を司っていました。この頃、皇太子建成は、弟の世民の勲功と人格が日々に隆盛となるのを見て、いよいよ恨みました。そして房玄齢と杜如晦が世民から親愛礼遇されていることから2人を憎み、高祖に讒言(ザンゲン)しました。そのため杜如晦と共に彼は追い払われました。
 李建成が世民を殺そうと計画したとき、世民は房玄齢と杜如晦を召し、道士の衣服を着きせて、そっと大門のわきのくぐり門から入れて相談をしました。そして玄武門の変を起こしました。
 玄武門の変の事件がおさまって世民が皇太子となり東宮に入ったとき、房玄齢を太子右庶子(太子職の一。左右があり、皇太子の侍従官として、儀式の指導や上奏文の内容の検討などをした)に抜擢しました。
 貞観元年(627)、中書令(機務・詔勅を司る官署である中書省の長官・宰相の1人)に遷りました。貞観3年には尚書左僕射(尚書省の次官・長官を兼ねた。左僕射は吏部・戸部・礼部を担当した)に拝せられ、国史を修めました。
 房玄齢は宰相として百官を統べ治め、朝早くから夜遅くまで勤勉で怠らず、心を尽くし節操をつくし、1人でもその人にふさわしい地位を得られることを願いました。
 人の善があるのを聞けば、自分のことのように喜びました。官吏の職務によく通暁した上、文学の才能もありました。法令を審査制定するにあたっては、ゆるやかで公平であることに心を置きました。人を採用するのに完全さを求めず、自分の長所をもって人と争うことをせず、能力に従って人に官職を授け、卑賎の者でも隔て遠ざけることがありませんでした。
 それゆえ、当時の論者は良相であると評しました。次第に進んで、梁国王に封ぜられました。貞観13年(639)には太子少師(皇太子の教育係)を加えられました。
 房玄齢は、自分が宰相になって15年になるので、たびたび上表して辞任を願いました。太宗は手厚い詔を下されて許されませんでした。
 貞観16年(642)には更に進んで司空に任命されました。房玄齢はまた年老いたので辞職をしたいと願い出ました。そこで太宗は使者を遣わして「国家では久しい間、あなたに政治をまかせて使ってきた。ひとたび突然、公のような良相を失うことは、左右の手を失うようなものである。もし公の筋力がまだ衰えないならぱ、このような辞譲の面倒をかけるな」と言ったので、玄齢はそのまま辞職の願いを取りやめました。
 房玄齢は、杜如晦と共に朝政を司り、24功臣の1人として、世に「房謀杜断」と並び称されました。貞観22年(648)7月、71歳て病で卒して太尉并州都督を贈られ、文昭と諡されました。



房玄齢像 (『三才図会』より)

 碑は高さ3.75mで、文は36行、毎行約81字で、篆額には4行16字で「大唐故左僕射上柱国太尉梁文昭公碑」とあります。碑文は北宋の頃には僅かに上部1/3ぐらい800字あまりが読めるだけで、撰者・筆者・立碑年月などはまったく見えなかったとあります。現在では、わずかに300字あまりを存します。しかしその書法は、《雁塔聖教序碑》などに見られる褚遂良の特徴と一致してい増す。このことから、筆者は褚遂良と言われています。
 さて立碑年月についてですが、碑文でも「修国史河南公」までは読み取れます。また、「太宗」という廟号と「今上」が見えます。この2つを基に考証してみます。
@
*まず「太宗」(=廟号)・「今上」>(=高宗)の文字があることから、
⇒高宗が即位した貞観23年(649)6月1日以後である。
*『旧唐書』褚遂良伝によれば、褚遂良は、高宗が即位して河南県公の爵を賜り、永徽元年(650)に河南都公に進んだ。
 褚遂良は貞観22年(648)9月に中書令になり監修国史(修国史)を加えられた。
 永徽元年(650)11月、河南郡公同州刺史に左遷され中書令をやめた。
⇒修国史で河南公でもあって、前記事項を考慮すると、貞観23年(649)6月以後永徽元年(650)11月までの間となる。
A
*褚遂良は、永徽3年正月に吏部尚書・同中書門下三品となり、監修国史を加えられた。
彼は、この時から永徽6年9月に尚書右僕射・同中書門下三品をやめさせられて潭州都督に貶(オト)されるまで監修国史を兼ねていた。
*房玄齢の子で高陽公主(太宗の娘)の夫である遺愛が謀反を企て永徽4年2月に課せられた事件が碑文にない。高陽公主は悪女として有名で、夫遺愛をたきつけて玄齢の嗣子の兄遺直と争わせ、封爵の奪取を企み、終始ごたごたが絶えなかった。こうしたこともあって、碑文によれば、この碑は玄齢の家臣、國吏が立てたらしい。
永徽3年(652)正月から永徽4年(653)2月の間。(復職から謀反まで)
 《房玄齢碑》の書法は、貞観16年の《孟法師碑》とはまるで異なり、永徽4年の《雁塔聖教序》と筆使いや結体が良く似ている。いわゆる「褚体」の完成時期の精熟の作品といえる。ただ《雁塔聖教序》は太宗の御製の聖教序を書くという気がまえのせいか、狂いがない。それに比べると《房玄齢碑》には形のととのわない字が見られる。
 @・Aいずれかは決め難いですが、筆使いや結体から考察すると、Aの永徽3年(652)正月から永徽4年(653)2月の間と思われます。しかし刻は実に忠実で、刻手の作為が感じられません。そのため《雁塔聖教序》のようには石刻の妙味がなく美しくは見えませんが、筆力痩勁・格韻超絶と評されています。