温彦博碑

 温彦博は山西併州祁(キ)県の人です。あざなは大臨。聡悟で弁才があり、隋の開皇末に高弟で及第し、文林郎を授かりました。後、幽州総管の羅芸(ラゲイ)の司馬となりましたが、羅芸と共に唐に降りました。
 武徳8年(625)6月、突厥との戦いに敗れて捕らえられましたが、翌年の武徳9年6月太宗が即位し、8月、突厥.吐谷渾が使を遣して和を請い、温彦博は帰還しました。
 貞観4年(630)、中書令となり虞国公に封ぜられ、貞観10年(636)6月、尚書右僕射(ウボクヤ)となりました。機務をつかさどるや、進言ごとに政事の利害を開陳し、しばしば太宗に褒められました。
 貞観11年(637)6月、64歳で亡くなり、特進を贈られ恭と諡されました。その年の10月、昭陵に陪葬されました。昭陵陪冢碑(バイチョウヒ)のうち、この温彦博が最も早く葬られました。
 石は良質の石灰岩で、高さ3.43m、幅1.05m、厚さ0・37mの巨碑です。碑額には篆書で「唐故特進尚書右僕射虞恭公温公之碑」と陽刻されています。そのため本碑は《虞恭公碑(グキョウコウヒ)》《温虞公碑(オングコウヒ)》とも呼ばれます。碑身は36行、毎行77字に区画されています。しかし、かなり以前からその下半部に損傷を被い、宋拓本で上半各行20数字、現在はかろうじて上半各行10数字を存しています。
 撰文には当時の大官岑文本(シンブンポン 695〜645)があたりました。岑は河南棘陽の人です。あざなは景仁。官は中書令に至り、文章を能くして、詔告などの起草に長じていました。撰文時、岑は43歳。その後、51歳で亡くなりますが、彼もまた昭陵に陪葬されました。
 筆者の歐陽詢は時に81歳、彼の碑書の中では最晩年の作です。その書は整斉にして緊密、とても老筆とは思えない気力の充実ぶりを感じさせます。
 王世貞(オウセイテイ)は、「平正清穆にして醴泉に勝る」と賞し、欧書の第一に上げています。しかし、欧書研究の第一人者といわれる清の翁方綱は「率更(歐陽詢)の諸碑は化度寺碑が第一で九成宮がこれにつぎ温彦博碑がまたこれにつぐ。思うに筆意のいたるところ、ならびに矜錬師古のあとを忘れているのである」と『復初斎文集』で述べています。楊守敬も『平碑記』で、「この碑は最晩年の書であるから、九成宮の上になければならぬが、これに及ばない。思うに奇険の度あいが少ないのである」と述べ、九成宮の方が上であるといいます。
 しかし、歐陽詢の書の中では結構・用筆ともに最もポピュラーで、初学の手本として最適なものと思われます。一点一画もゆるがせにしない厳しさ、筆画は緊密で中心部に凝集し、文字の中の長い筆画が際立っています。横面の右上りの角度がかなりきつく、覆勢がはっきりしています。しかも点画を寄せ集めただけの寄せ木細工のような文字ではなく、一点一画が響き合い、分間布白が巧みに処理され、生気あふれる文字になっています。