尉遲敬徳(恭)碑

 尉遲敬徳の本名は融(墓誌による。史書では恭)ですが、あざなの敬徳で呼ばれました。この碑は《尉遲恭碑》とも呼ばれます。敬徳の遠祖は、鮮卑の別種とされる尉遲部です。両『唐書』は、敬徳の本貫を河東道朔州善陽県(山西省朔県)と記していますが、ここが祖先の旧貫の地と思われます。
 曾祖の本真の代に、孝文帝の遷都とともに河南洛陽に移居したと思われます。碑文および墓誌に「河南洛陽の人なり」とあるのは、この間の事情を説明しています。尉遲氏は代々武門として、大父(祖父)の益都(墓誌には「祖孟都」)は北斉と北周の二代にわたり、父の伽は隋朝にあって、事績を残しました。
 敬徳は、若くして武勇をもって称され、累戦して武勲を輝かせ、隋末には官は朝散大夫に至りました。李世民は洛陽攻撃に向かう前、太原留守の劉武周(リュウブシュウ)と戦っています。
 劉武周は以前、李世民の弟の斉王李元吉を敗退させました。李世民はその敵(カタキ)討ちに向い、先鋒と後方との連絡を立ち、兵糧攻めにしました。敬徳は、ろう城を続ける劉武周の同盟者でした。敬徳は戦況を判断して、武徳3年、李世民に降伏しました。李世民は、みどころがあるとして彼を赦しました。
 武徳9年(626)6月、玄武門の変で秦王李世民は皇太子の李建成(世民の兄。高祖李淵の嫡長子)と斉王李元吉(世民の弟)とを誅殺しました。建成は世民によって射殺され、敬徳は流れ矢に当たって逃亡する元吉を殺しました。かくして、護軍尉(親衛隊長)として武勇を現しました。李世民の軍の旗色が悪くなったとき、敬徳は李元吉の首を示し、状況を一変させました。(『旧唐書』巻64「隠太子建成伝」・『新唐書』巻79「隠太子建成伝」に基づく)
 この時、高祖李淵は海池で舟を泛(ウカ)べていましたが、世民は敬徳に命じて高祖を侍衛させました。敬徳は甲を着用し、矛を手にして高祖のもとに至ったといいます。敬徳は奏して手勅を請い、かくして秦王を立てて皇太子と為すとの詔が下されました。
 論功行賞が行われ、尉遲敬徳と長孫無忌が第一とされました。ために太宗24功臣の一人にあげられました。ほどなく高祖は譲位して、世民が即位し、貞観の治が開かれることになります。
 敬徳は、貞観元年(627)に右武侯大将軍を拝命し、呉国公の爵を賜りました。貞観11年(637)には、功臣を優遇するため刺史世襲の恩典とともに鄂国公に改封されています。後、開府儀同三司を拝しました。
 『貞観政要』(10巻40編。唐の呉兢(ゴキョウ 670〜749)の著。成立年代不詳。唐の太宗とその臣下たちとの間の政治上の論議を集めた書)に、次のようなエピソードが載っています。
 貞観18年に、太宗が自ら高句麗を討とうとしました。開府儀同三司の尉遲敬徳が申し上げるには、「天子がもしご自身で遼東へ行幸なされるならば、皇太子はまた定州で国事を代行することになります。洛陽と長安の東西の二京や、財貨や武器の倉のあり場所の守備が手薄になります。遼東は道が遥かに遠くであります。煬帝の留守に楊玄感が兵を起こしたような変乱が起こることが心配です。高句麗は東方の小国です。万乗の天子が自ら出馬なさるほどのものではございません。もし勝ったとしましても、武徳とするほどの価値はございません。もし勝てなかったら、かえって世の非難を受けることになりましょう。平伏してお願い申し上げますには、高句麗遠征は良将にご委任されますように。そうしますれぱ、即時に砕き滅ぼすことができましょう」と。太宗は、その進言に従いませんでしたが、見識ある人は、尉遲敬徳の進言を正しいとしました。



尉遲敬徳像 (『東洋の歴史5』より)

 敬徳は晩年には、前漢初期の張良(漢の三傑の一人(?〜前196)。字は子房。秦に滅ぼされた韓の貴族の出身。秦に亡国の怨みを抱き、始皇帝暗殺を図るが失敗。秦による犯人捜索を逃れるため、各地を転々とする。この頃に黄石公より三略を授かったという。その後、劉邦に仕えた。兵を率いて戦をしたことは無かったが、帷幕にあって天下に策謀をめぐらし、戦略的勝利を積み重ねていった。陳平とともに鴻溝の盟約に背き、項羽を攻めることを進言する。劉邦が度々、項羽に大敗しながらも、最終的な勝利をものにできたのは、張良の戦略構想の賜物といえる。建国後の都の長安選定や劉邦の後継者問題の解決にも功があったが、粛正を恐れ隠棲している)に倣って政界を離れ、もっぱら仙道を信奉して外界との交渉を絶りました。高宗の顕慶3年(658)11月、病のため74歳で亡くなり、司徒と并州都督とを追贈され、忠武と諡されました。
 敬徳の墓は円錐形に盛り土したもので、高さ11.2m、直径は26.5m。その南側に立てられていたのがこの碑て゛す。顕慶4年(659)、許敬宗が撰文し、王知敬?が書しました。
 碑文の行格は、全体で41行、行78字。碑身4.45m、幅1.49m、厚さ52pで、台座は方形。碑額には、篆書陰文で「大唐故司徒并州都督鄂国忠武公之碑」とあります。さすがに太宗の重臣の一人らしく、《李勣碑》に次いで大きく、碑側の多様な蔓草花飾とその下の獣面などの精巧な作りで、他の碑を圧しています。
 この碑も磨滅が激しく、大半の字が見えません。しかし、土中に埋まっていたと思われる下部に500字ほど完好な字が見られます。なお、この碑文は『文苑英華』巻911(1000巻。宋の太宗の勅命を受けて李ム(リボウ 925〜96)ほかの編。987年成立。梁(リョウ)末から唐末までの詩文の精華を集めたもの)に収められているので、欠損の個所を補うことができます。
 撰者の許敬宗(《高志廉碑》と同じ)は、敬徳と姻戚関係にありました。『旧唐書』巻82に「敬宗は子の為に尉遲宝琳の孫女(『新唐書』巻223上では「尉遲敬徳の女孫」とある)を娶りて妻となし、多く賂遺を得たり。宝琳の父の敬徳の伝を作るに及んで、悉く為に諸々の過咎を隠す」とあります。
 趙明誠『金石録』巻4では、《宝琳碑》の撰者も父と同じく許敬宗としています。しかし《宝琳碑》は咸亨元年(670)の建碑で、王知敬の楷書としています。
 許敬宗は、秦府18学士の一人に数えられ、文翰の才にも恵まれた人物で、貞観8年(634)、以来退官に至るまで国史の編纂または監修にあたりました。国史に限らず、貞観以来の唐朝における編纂事業は、彼の編纂あるいは総括の下に進められ、編纂の図書としては、『武徳実録』『貞観実録』『晋書』『文館詞林』『姓氏録』などが知られています。
 《尉遲敬徳碑》の碑文は、美辞麗句によって綴られ、これが『文苑英華』に収められたのは、文学作品としての評価に基きます。しかしその史実の叙述にはムラが見られます。
 例えば、尉遲敬徳の玄武門の変における活躍ぶりに関しては簡単に触れるにとどめています。にもかかわらず、陪葬の際の喪礼の次第については、昭陵諸碑のうちでも最も詳細な記事を載せています。
 許敬宗の撰による碑文としては、この《尉遲敬徳碑》のほかに《李靖碑》《馬周碑》《高士廉碑》《程知節碑》などがあります。
 許敬宗の性行については、きわめて評判が良くありません。国史編纂にあたっては、賄賂によりさかんに曲筆や阿諛の記事を造作したといいます。皇后長孫氏が崩じた折に、喪中の百官が>歐陽詢の酷異な状貌を指差すのを見て大笑いし、御史の弾劾を蒙って左遷されたこともあります。また、尉遲敬徳をはじめ蛮酋に娘を下嫁したのも財宝を納めさせるためだったといいます。
 永徽6年(655)に高宗が皇后王氏を廃して武昭儀(のちの武則天)を立てようとしたのに対して、長孫無忌や褚遂良たちは直言して避難しましたが、許敬宗は立后に賛同し、李義府と結託して長孫無忌や褚遂良たちを誣告し、褚遂良を嶺外に追放しました。この後、武則天を擁立した許敬宗は、朝政を専断し、中書令・右相を歴任し、顕慶3年(658)に引退を乞い、太子少師・同東西台三品(宰相)となりました。
 咸亨3年(672)に81歳で没し、開府儀同三司・揚州大都督を追贈され、昭陵に陪葬されました。諡は、はじめ太常博士は「繆公」とすべきだと定めましが、詔により集議して「恭公」と改めた経緯があります。『新唐書』は李義府とともに「姦臣伝」に収めています。
 筆者は王知敬といわれますが、定かではありません。王知敬は河内(河南省沁陽)の人。一説に洛陽または太原の人ともいわれます。武則天の時、太子家令となり、官は麟台少監(秘書監)に至りました。書に巧みで殷仲容と並び称されます。その書には《李靖碑》《金剛経碑》《洛川長史徳政二買碑》があります。
 《尉遲敬徳碑》の書は褚遂良の《孟法師碑》の書風に極めて近く、方筆で鋭く、《李靖碑》に比べ字が大きいためか横面にうねりが加わっています。褚遂良の《房玄齢碑》《雁塔聖教序碑》などにも隷意を窺うことができますが、この碑にあっても、「列」「加」「大」「夫」などの字の掠法に分隷の書法が顕著に現れています。また全体的には背勢ですが、転折部分は大きく膨らませて向勢になっています。
 また、上の写真の2行目上から5文字目の「愈」は、下部の「心」を中心線よりわずかに右側に寄せる重畳法が見られます。同時に、太宗は風流妍美の書風を強く主張しましたが、この碑もまたその影響を受け、婉麗驃逸な表現となつています。
 拓本について、張彦生『善本碑帖録』に「明末清初の拓本を見るに、第三行華軼の華の字は見るべし」とあり、明末清初の旧拓本では「華」の字が見えるとあります。