張胤碑

 張胤(両『唐書』には「張後胤」とある)は、蘇州崑山の人で、祖父は南朝の梁に仕え、父は陳の国子博士でしたが、陳の滅亡後は隋に入仕しました。
 漢王楊諒(文帝の子で、煬帝の弟)が并州牧に在任していた際、博士として招かれています。このように張氏は儒学によって知られていました。
 高祖李淵が太原を鎮撫していた時期に、張胤は賓館に招かれ、世民(後の太宗)に対して『春秋左氏伝』(12巻(経伝あわせて30巻)。「春秋」本文に対して史官であった左丘明(サキュウメイ)が、詳しい事件の動きや、人物の言行など豊富で確実な史実によって経義を説明した「伝」をつけたもの。現行のかたちに整理されたのは、前漢末、劉淘(リュウキン)の手を経て以後のことである。)を侍講しました。のち、斉王(李元吉)府文学となり、新野県公に封ぜられました。
 太宗即位の後は、国子祭酒や散騎常侍を歴任し、永徽5年(654)に致仕しました。詔によって、褒賢の義と尚道の風をもって、とくに金紫光禄大夫を加えられました。顕慶3年(658)正月、京師長安において83歳で病死し、礼部尚書を追贈され、康と諡されました。
 碑の撰者は、『関中金石記』巻2所引の『復斎碑録』に李義府とありますが、その根拠は不明です。ただ、『全唐文』巻153には李義府の作としてこの碑文が収められています。なお、書者も不明です。
 碑文は31行、行81字の楷書です。篆額には陰文で3行、行4字に「大唐故礼部尚書張府君之碑」とあります。
 傷みがひどく僅かに6〜700字が存します。趙崡『石墨鐫華』巻2は、精健な書法とし「褚遂良の流れを汲み、顔真卿の書風の先駆をなすもの」といっています。顔真卿の書法に関しては、米芾や阮元などは、褚遂良に由来するとしています。硬勁な筆力のうちに潤婉な風趣を具えた褚遂良の筆法を継承したものといえます。