豆盧寛碑

 この碑は《芮(ゼイ)定公豆盧寛(トウロカン)碑》ともいいます。豆盧氏は、もともと鮮卑族慕容部の出身で、五胡十六国時代、前燕武宣帝慕容廆(カイ)の弟の西平王慕容運の孫にあたる北地王慕容精から派生しました。北魏に帰順した際に豆盧と改姓しました。北族の言葉で帰義を豆盧というのに因みます。
 豆盧寛の叔母は、北周の宗室斉王宇文憲の妃となり、父の豆盧通は、隋の文帝の妹の昌楽長公主を娶っています。また、豆盧寛の子の懐譲に対して、高祖の19女のうち長沙(万春)公主が下嫁されました。このように豆盧氏は、北周・隋・唐の3朝と連姻の関係にある名族です。
 豆盧寛は河南洛陽の人で、隋の大業年間に梁泉令になっています。高祖が関中を定めるにおよび、豆盧寛は郡守蕭瑀と地方の豪族の心をまとめ、殿中監を授かりました。
 豆盧寛は、貞観年間には礼部尚書、左衛大将軍を歴任し、芮国公に封ぜられました。永徽元年(650) 6月、69歳で亡くなり、并州都督を贈られ、定と諡されました。
 豆盧寛の墓所の規模は、高さ5m、直径22mの円錐形で、左側(西側)に子の豆盧仁業が埋葬されています。豆盧仁業の墓所はやや小型で、高さ3m、直径16mの円錐形をなしています。
 碑は、永徽元年、墓前に立てられました。32行、行69字に精健な筆勢による方整な楷書で書されています。篆額には「唐故特進芮定公之碑」と陰文で3行3字に記されています。撰者は、『金石録』(呂無党本)によれば李義府とあります。書者は不明です。
 李義府は、饒陽の人です。太宗の時、太子舎人、崇賢館直学士となり、彼の文才を遺憾なく発揮しました。高宗の時には吏部尚書、中書令・同中書門下三品になりました。彼は、その容貌から、猫と陰口されていたといいます。晩年は雋州に流され、麟徳3年(666)に亡くなりました。なお歐陽棐(ヒ)『集古録目』や趙明誠の『金石録』では、門下侍郎の李義甫としています。
 碑文の書は、歐陽詢を思わせる、唐の典型的な楷書です。しかもその中に、徐浩の《不空和尚碑》に見られるような、行書の筆法が加わっています。精健な筆勢による方整な楷書で、方正のうちに広がりがあり、ゆったりとした流れを感じます。