薛収碑

 薛収(セツシュウ)は、あざなを伯褒といい、蒲州汾陰(山西省?河県の北)の人です。高祖に仕え、秦王府主簿を勤めました。秦王府主簿とは、李世民のもとで本来は官僚の弾劾を掌る職務ですが、彼は特に戦勝をみんなに伝えるための露布(竿の上に付けて見えやすくしたもの)と呼ばれる檄文を書くことを担当しました。彼の文章は、簡潔明瞭であったといいます。
 彼も秦府18学士の一人で汾陰県侯に封ぜられ、天策府記室参軍を授かりました。特に、竇建徳との戦いで功績を立てています。武徳7年(624)33歳の若さで病のため亡くなりました。その後、貞観7年(633)定州刺史を、永徽6年(655)には太常卿を贈られ、昭陵に遷葬されました。
 碑は、遷葬された時(永徽6年)に立てられ、《皇甫誕碑》の撰者でもある于志寧が撰文しました。書者は不明。于志寧は、あざなは仲謐、秦府18入学士の一人で、貞観年間に太子右庶子となりましたが、母の死に際し、休職しました。後、燕国公に封ぜられ、監修国史となりました。高宗の時、太子太師を拝し、中書門下三品・華州刺史に至りました。卒して定と諡されました。
 碑の楷書は厳格で整然としていて、唐の雰囲気が良く現れています。しかし、壊されたうえ風化が激しく、よく見えないのが残念です。