孔頴達碑

 孔頴達は、初唐の大学者で、衡水(河北県冀県の東北)の人です。幼少にして聡敏で、一日に千余言を暗誦したといいます。若くして、隋の煬帝に「明経(儒教経典の研究論文)」を提出しました。煬帝は、天下の儒官を洛陽に召し、国子秘書学士を詔して、論議をさせました。結果老師たちは孔頴達の下に教えを請いました。そして彼は、最年少で官につきました。
 唐に入って、秦王の文学館学士となり、国士博士、国子司業、国子祭酒となりました。また、太宗の詔で、儒教の経典の解釈に南朝の学説を採用して編集した注釈書『五経正義』223巻を編纂しました。五経とは、儒教の易経(周易)・書経(尚書)・詩経・礼(儀礼のちに礼記)・春秋の5つの経典をさします。編纂には顔師古が協力しています。太宗の文化事業に大きな役割を果たし、曲阜県男に封ぜられ、貞観22年(648)卒して太常卿を贈られ、憲と諡されました。 
 孔頴達のあざなは、従来『唐書』に従って「仲達」といわれていました。しかし、歐陽脩の『集古録』には「冲遠」と記載されています。また年齢については、趙崡の『石墨鐫華』には、「貞観22年6月18日に薨す、春秋70有5」とあります。
 この字名と年齢の2点について、明末には既に碑の2/3ほどが土中に埋没していて確認できなかったといいますが、碑文には「仲遠」とあり、史書の誤りが訂正されました。現在、昭陵碑林に移管され、碑の全文が見られますが、読める字は200字足らずしかありません。
 この碑の撰文には于志寧があたり、亡くなった年の貞観22年(648)に立てられました。275×105p。35行、毎行76字の約2,500余字です。
 書者は不明です。古く宋代には虞世南の書と言われたこともありました。しかし虞世南は貞観12年(638)に亡くなっています。当然のこと、10年後のこの碑を書けるはずがありません。趙明誠が『金石録』で指摘した通りです。
 しかし確かに、転折部分の用筆法・結構法など、虞世南に近似しています。黄伯思は『東観余論』で「其の筆法を験するに、蓋し当時の書を善くする者の、世南の書を規摸して之を為る者ならん。筆勢の遒媚なるも、亦た自ら珍ず可し」と言っていますが、わずかに残る筆画のはっきりした文字を見ると、結構が伸び伸びとして雄大です。その清く爽やかな筆勢は、初唐の雰囲気を良く伝えています。以前拝見した、(故)小暮青風先生が長鋒の剛毫筆を使って書かれた小楷に近似しているようにも思います。
 筆先まで神経の行き届いた筆致でありながら、懐が広く、温和なムードの中に張り詰めた空気の流れを感じます。沈着冷静でありながら、軽快なリズムをかなでています。楊守敬は『平碑記』で「稽弱し」と言っていますが、それは拓本を見てのことだと思います。碑を見る限り、西安碑林にある重刻の《孔子廟堂碑》に比べ、むしろ勝っているかに思われます。多分、虞世南の書をよく習いこんだ人の手になるものでしょう。
 碑額には篆書の陽刻で、「大唐故国子祭酒曲阜憲公孔公之碑銘」とあります。