褚亮碑額

 碑額は、一説に、太宗李世民(597〜649)の書といわれ、「大唐褚卿之碑」とあります。碑額には普通、官・爵・勲・諡・称、あるいは身分・尊称などが刻されます。しかし、この褚亮碑だけは、褚亮の愛称の「褚卿」とあります。これは太宗が日頃、褚亮をそう呼んでいたためといわれています。
 その書体は、篆書に隷書が混ざった、いわゆる古隷に属するもので、《秦詔版》などにも見られます。書法は、力強く研美で、方と円を兼ね備えています。結体は篆書で運筆は隷書、正に篆隷が結合して絶妙な風韻を感じます。また、1999年1月19日に奈良国立文化財研究所が発表した《富本銭》の「富」にも通じます。


「富本銭」 ( 「朝日写真ニュース」より )

 清の金石学者林侗の『唐昭陵石蹟考略』によると、「唐の制度では、叙階が三品以上の者は碑を立てることが許された。そこで元老大臣たちは天子(太宗)に題額を書いてもらおうと大変な努力をした。昭陵碑額はそれぞれ異なるが、多くは篆書である。唯一、褚亮碑だけは篆書に隷書が混ざった書体で、峭勁である。ために疑いなく太宗御題である。」とあります。
 太宗御題とすれば、褚亮が亡くなった貞想21年(647)から太宗の亡くなる貞観23年(649)までの間の立碑ということになります。しかし、この碑の本文は殷仲容が書いています。
 褚亮は褚遂良の父です。殷仲容には申し訳ありませんが、なぜ息子の褚遂良が書かなかったのか疑問です。官爵でも、書の力量にしても、はるかに上だったはずです。貞観21年から貞観23年の間の立碑であれば、褚遂良が書いたはずです。
 褚遂良は永徽6年(655)9月、武則天を皇后に立てる時、反対して高宗の怒りをかいました。そのため趙崡の『石墨鐫華』では、「父の碑を汚すのを慮って、自ら筆を下すことが出来なかった」としています。とすると、太宗御題とする説が問題になります。
 しかも現存する篆額の「褚」字の偏は禾偏に書かれています。したがって、唐代の所作ではありますが、六書に通じない者が補修したように思われます。