褚亮碑

 褚亮は、あざなを希明といい褚遂良の父にあたりきす。碑文の最初の部分に、彼の祖先の事績が述べられていて、褚氏の旧貫は陽鄄(現在の河南省禹県)と記されています。のちに、碑文では貞観元年(『旧唐書』では貞観9年(635))に亮が陽鄄県男に、ついで貞観16年(642)、陽鄄県侯に封ぜられたことには由来しません。
 祖先は晋王朝の江南への移遷に伴い、丹陽に転居したと記されています。しかしこの記載個所は、現在では判読できません。その後、高祖・曾父の代に及んで丹陽から銭塘に徒居したと思われます。
 褚氏は先祖代々南朝に出仕しました。高祖の褚Rは、南斉の東陽太守から侍中、吏部尚書に至り、亡くなって太常卿を贈られ貞子と諡されました。曾父の褚湮(チョイン・『旧唐書』巻72・『新唐書』巻102「褚亮伝」に基づく。なお「宰相世系表」は褚漢、『南史』巻28「褚裕之伝」は褚澐に作る)は、梁の御史中丞・中書侍郎となりましたが、この個所の30余字は欠落しています。
 褚亮の祖父に当たるのが褚蒙で、碑文には「蒙は梁の儀同廬陵□東閤祭酒・太子中舎人」とあります。父の褚玠(チョカイ)は陳に仕えて御史中丞に任命され、在官中に死去し、秘書監を贈られました。碑文には「秘書監府君」とあります。
 褚亮は幼くして聡敏、学を好み、善く文を属し、博覧にして至らざるところなく、目を経れば必ずこれを銘記して忘れず、喜んで名賢と遊び、しかも談論に長じた、とあります。
 弱冠にて陳の後主陳叔宝に仕え、開皇9年(589)、陳の滅亡(隋文帝開皇9年)にともなって隋に入り、大業7年(611)に太常博士を授けられました。大業13年(617)4月、薛挙(セッキョ)が即位して秦を建国した際、黄門侍郎を授けられました。
 薛挙が敗れると、武徳元年(618)、秦王李世民に礼を厚くして迎えられ、世民が出征する際には常に従い、軍中にあって秘謀に参与しました。そして李世民は、秦王府に文学館を開き、18人の賢才を集め、学士としました。褚亮は秦王文学となり、のちに秦府18学士の一人に数えられました。この秦府18学士こそ、世民のブレーン集団でした。
 武徳4年(621)5月、李世民は竇建徳・王世充を降しました。この時点で天下の大局が定まりました。その年の10月、高祖李淵は天策府を設け、李世民を天策上将としました。
 褚亮は、李世民が皇太子として監国にあたるや、太子舎人となり、ついで太子中允に進みました。貞観元年、世民の即位と共に弘文館学士となり、貞観9年(635)、員外散騎常侍に進授せられ、陽鄄県男(『旧唐書』による。碑文では貞観元年)に封ぜられ、さらに通直散騎常侍に拝せられました。
 貞観16年(642)、爵を進めて陽鄄県侯となり、色邑700戸を下賜されました。後に致仕して家に帰りました。太宗が遼東に幸せるとき、詔を賜りましたが、表を奉じて厚く陳謝しました。その後、病に倒れた時にも詔により医薬を賜りました。貞観21年(647)10月、88歳で卒するや、太常卿を賜り、昭陵に陪葬せしめられ、康と諡されました。
  褚亮はとりわけ文詞の才によって名声を得ました。太宗は貞観3年(629)に、かつて交争の戦場となった地域に対して詔を下し、戦没した義士や勇人を功養するために各々一寺を建立させました。この折に、太宗は、褚亮をはじめとして、虞世南、李伯薬、顔帥古、岑文本、許敬宗、および朱子奢らに命じて、かれらの軍功を顕彰する碑銘を作製させてました(『旧唐書』巻2、『唐会要』巻48)。
 また太宗は、戦乱が、平定されたあと、閻立本に草創に事績を挙げた18学士の肖像画を描かせました。この際、褚亮は18学士の各々に対して賛を付し、名字や爵里を題しています。《18学士写真図》と号され、書府に架蔵されたといいます。
 碑は墓前に立てられました。彼の陪葬墓は、九嵕山下の平原、現在の醴泉県姻霞古村の西側に位置し、墓形は直径18m、高さ5mの円錐型をなしています。立碑の年は不明ですが、没後3年を経た高宗の永徽元年(650)頃と推定されています。
 書者は《馬周碑》と同筆とみなされることから殷仲容と考えられ、28行、65字の規格をなし、めずらしく八分書で書かれています。もともとは1800余字が刻されていましたが、現在判読できるのは上段の僅か400字くらいです。
 殷仲容は、殷令名の子で、歐陽詢や虞世南と並ぶ初唐の能書家として評価を得ています。陳郡(チングン 河南省淮陽)の人で、開元年間(713〜741)の中頃、60〜70歳ぐらいで亡くなったそうですが疑問です。
 殷仲容は、高宗時代から武則天時代にかけて名をはせ、礼部郎中・申州刺史に任ぜられました。永徽2年(651)には、《李神符碑》を書しています。とくに、武則天から、その才能を愛され、太僕(タイボク)、工部郎中に任ぜられました。
 張懐瓘『書断』に「篆隷を善くす。題署尤(モット)も精なり」とあるように、家学を承けて篆隷をよくし、もっとも題署(聯額の題字)に長じて名声がありました。また、竇蒙「述書賦注」には、「仏寺や道観の題額を善くした」とあります。
 また肖像画、花鳥画にすぐれ、その生き生きとした姿をうまくとらえ、ときには墨色だけをつかって、あたかも五彩を備えたような制作もあったといわれています。彼をもって墨画の祖となす人もいます。現存するものに、上元元年(674)の《馬周碑》、開元年間の《比干墓銘》・《季札墓碣》、開元10年(722)の《奉先寺大盧舎那像龕記》などがあります。
 殷氏は、代々能筆家を輩出した顔氏一族と歴代通婚をしています。仲容の姉は顔真卿の祖父、昭甫(ショウホ)に嫁しています。昭甫の死後、真卿の父である惟貞(イテイ)を育てて、彼に筆法を教えました。やがて惟貞は、草・隷をもって名を成しました。こうしたことから、顔卿の書法を考える場合、殷氏の書法が少なからず投影していると考えられています。
 殷仲容の八分書は、繊細妍美で、秀麗です。高さ3mの《褚亮碑》も、磨滅浸蝕が激しいですが、上部の400字ほどが残っています。この碑は唐碑のイメージからはほど遠く、骨力のみなぎった漢碑、中でも《禮器碑》を思わせます。