段志玄碑

 段志玄は、斉州臨淄(リンシ 山東省淄傳市東北・周代斉(セイ)の都)の人で、生まれつき壮大な性格で、強くて思いきりよく、戦いに良く善戦し、太宗に従って、拒まず屈せず突き進んだと史書にあります。
 洛陽攻撃では、王世充・竇建徳を破り、東都(洛陽)の平定に貢献しました。官は鎮軍大将軍に至り、爵は襄国公(襄国とは周代の国名・陜西省褒城県)に封ぜられました。太宗の24功臣の一人に数えられています。貞観16年(642)、病で卒し、輔国大将軍・揚州都督を贈られ、忠壮と諡されました。
 碑は貞観16年、墓前に立てられました。32行、行65字の楷書です。撰者も書者も不明です。碑文の書は、歐陽詢の《化度寺邕禅師塔銘》に近く、殷令名の《裴鏡民碑》を思わせます。方整で角張っている内に懐が広く沈着で、六朝書法の風格を受け継ぐ初唐の気風がみなぎっています。
 また趙崡『石墨鐫華』には「正書(楷書)中、時に一二筆の分隷を作す、是れ六代の遺習なり」とあるように、「十」・「所」・「上」などの字に、隷書の筆画が見られるなど、隷書から楷書への転換期の書としても興味深く、初唐の書法発展過程を知る貴重な資料といえます。しかし、こうした隷書の筆画は、詢の子の歐陽通《道因法師碑》にもみられるなど、一概に六代の遺習といえるかは疑問です。
 この碑も下半分はほとんど判読できませんが、上部1/3の左側の保存は完好です。碑額は篆書の陽刻で「大唐故右衛大将軍楊州都督段公之碑」とあります。