玄武門の変

「史書を読むと太宗の武勲は素晴らしいけど、そのスタートは武徳9年(626)6月の〈玄武門の変〉のクーデターでしょ」
「うん。その時の太宗の秘策はすごかった、さすがに策士だよ」


太宗李世民 朝華出版者『中国歴史博物館・中国通史陳列』より
 李世民(太宗)の兄の皇太子李建成(ケンセイ・隠太子)は、世民の軍功がめざましく日々名声が高まるのを見て、憎みました。建成は皇太子なので大過なく過ごせば帝位を継げるはずです。しかし、父の高祖は世民に「天策上将」というこれまでにない称号を与え、弘義宮(コウギキュウ)という皇太子の東宮に匹敵するような宮殿を造営しました。
 建成は不安になりました。そこで世民から親愛礼遇されている房玄齢(ボウゲンレイ)と杜如晦(トジョカイ)の二人の策士を、高祖に事実とは違う報告をして追い払いました。父の高祖にしてみれば、建成は何と言っても皇太子、勢力争いがあれば世民のほうに責任があるはず、処分すべきは世民のはずです。しかし天下に大功のある世民を処分できませんでした。
 こうした高祖の優柔不断さと、2人を取り巻く廷臣たちの策謀が、兄弟の争いをさらに激しくさせました。李建成の臣魏徴(ギチョウ)は、「この際 世民を殺すべし」と主張しました。世民も兄が自分を殺そうとしていると直訴します。そこで高祖は「明朝2人から話を聞こう」と答えざるを得ませんでした。まさかこれが世民の秘策だとは気付かずに。
 太宗は追放されていた房玄齢と杜如晦に道士の衣服を着させ、そっと門から入れて密談しました。そして建成の部下で、長安宮城の北門である玄武門の守備隊長を勤める常何(ジョウカ)を買収しました。かくしてその計画は武徳9年(626)6月4日実行されました。
          

魏徴(『昭陵』より) /房玄齢(『中国の歴史5』より)/杜如晦(『東洋の歴史5』より)
 天子からお召しがあれば皇太子も参内しなければなりません。緊迫した時期なので皇太子も武装兵に守られて玄武門から入りました。玄武門は宮殿の北門で、ここからは宮殿に入る許可証である符籍がなければ入れません。2000人を超える武装兵を連れてきても、符籍を持つ者は少なく、大部分は玄武門外で待つこととなりました。
 建成と弟の元吉(ゲンキツ)は見方が護衛しているものと思い込み、少数の護衛だけで玄武門をくく゛りました。しかしそこには裏切った常何と世民の兵が待ち伏せしていました。高祖に兄弟の参内を言わせたのは建成を誘い出すための手段だったのです。建成には彼に厚遇されていた馮立(フウリツ)、弟の李元吉には謝叔方(シヤシュクホウ)という武将がいました。2人は軍を合わせて、中郎将の呂衡(リョコウ)を殺しました。
 世民の旗色が悪くなったとき、護軍尉の尉遲敬徳(ウッチケイトク)が元吉を殺してその首を示しました。左車騎将軍の謝叔方はこれを見て、馬から飛び下り号泣して、いとまごいをし、退散しました。
 建成が殺されるに至り、その多くが逃げ去ったとき、東宮率の馮立は、「なんで生前に御恩を受けているのに、死なれたときにその恩を忘れ、逃げることができようか」と言って、兵を引き連れて玄武門に攻め入り、苦戦しながらも屯営将軍の敬君弘を殺し、その部下に、「少しばかり太子の恩に報いることができた」と言って、兵を解散して野外に逃れました。
 李建成にも、李元吉にも、有能な部下は多くいました。宋の司馬光(シバコウ 1019〜1086)の著した歴史書『資治通鑑(シジツガン)』に、「建成、すこぶる仁厚なり」とあるように、人柄も良く信望を集めていました。また、世民と建成は兄弟仲もさほど悪くはなかったと言います。


玄武門の変 (『隋唐演義』挿図より)
「世民は兄建成とその子5人、弟元吉とその子5人をすべて殺しちゃったんだよ」
「そうよ。それに8月には父親の高祖李淵を退位させ、自ら帝位についたんでしょ」
「世民は極悪非道な奴だよ。甥にあたる子供達まで殺さなくてもいいじゃん」
「太宗は寛容で、優れた英知と豊かな天分の持ち主です。その上、多くのすぐれた人物を周囲において、政治を討論し、自らの教養を高めることに努力しました」
「確かにそうかもしれない。でも彼は兄弟や甥を殺しただけじゃないよ。殺した元吉の妻を自分の妃にしようとしたよ。これは許されないだろ」
「ええ。それは良くないけど、彼は立派な人です」
このガイドの言からしても太宗李世民は現在もなお英雄であることは確かです。


『貞観政要』 (国立国会図書館)
 唐の呉兢(ゴキョウ)の著『貞観政要』によれば、太宗はその後、馮立と謝叔方の2人を召し抱えています。記事では太宗の心の広さを称えています。
 また、太宗はクーデター後に建成の臣だった魏徴を召し出し、「汝が常に兄の建成に早く適切な計画をなすよう勧めて、われわれ兄弟の仲を離間したのは、いかなるわけか」と言って責めました。ピーンと張り詰めた空気がはしり、その場に居合わせた者はみな緊張しました。魏徴は信念を持って平然として、「もしも建成があなたを殺せという私の意見に従ってくださいましたら、今日のこのような災いはなかったでしょう」とお答えしました。殺されるのを覚悟しての大胆な発言でした。
 太宗はそれを聞き、敬意を表して態度を引き締め、特別に厚く礼遇を加え、諫議大夫(カンギタイフ)に抜摘し、たびたび寝室の中までも引き入れて、政治のやり方について問い尋ねた、とあります。確かに魏徴は、後、特進・太子太師に至っています。
 現存史料の多くは、李世民の皇帝在位中に編纂された『高祖実録』および『太宗実録』に基づいて、太子建成や斉王元吉が玄武門の変以前に、さも悪事を行っていたように書かれています。
 『旧唐書』や『新唐書』でも同様に、武将の勲功はすべて太宗の力となっていて、敗戦はみな武将のせいにされています。『新唐書』は225巻で、宋の歐陽脩(オウヨウシュウ 1007〜1072)らが編しました。1060年に成立した唐代の歴史を記した正史です。唐代の正史については、すでに五代後晋の時に編集された『唐書』がありますが、本書はその『唐書』を補正する目的で、仁宗の詔によって編集されたもので、本紀10巻、志50巻、表15巻、列伝150巻からなります。本書が完成したので、前の『唐書』は『旧唐書(クトウジョ)』と呼ばれるようになりました。
 歴史は勝利者側にたって書かれているのは当然のことですが、隋の煬帝は代表的な暴君で、太宗は希に見る英主とされるのには疑問を感じます。


兵馬俑 (西安交通大学出版社『CD-ROM秦の始皇帝兵馬俑』より)
 太宗は、人材不足もあってか、敵方の武将を数多く助命し登用しました。多分、秦の始皇帝を手本とした法治国家を目指したのでしょう。結果、多くの賢臣名将が排出し、太宗の手足となって唐王朝の新基軸を作り、約300年の礎を成しました。太宗の政治は、在位23年のあいだ改元されなかった元号の「貞観」と結び付つけて「貞観の治」と呼ばれ、善政理想政治の代名詞となっています。
 太宗は内治にも外征にも輝かしい業績をあげました。文化面でも、南北朝文化の集大成を目指し、房玄齢・李延寿(リエンジュ)らが編した『晋書』をはじめ、南北朝の正史の編集を命じ、また『五経正義』を編集して経書に関する学説の統一を行ないました。
 一方、書家としても有名な太宗は王羲之の書を愛し、貞観年間を通じてその真蹟を集めることに力を惜しみませんでした。その集め得た逸品は整理保護し、優れた榻書手(トウショジン)に命じて榻本を作り、これを臣下に分かち与えました。これにより羲之流の書が一世を風靡するに至りました。彼は羲之の書を愛するの余り、《蘭亭叙》を殉葬させたと伝わっています。

 太宗は側近に対して貞観11年2月に「九嵕山卜陵詔」を発し、寿陵に墓地1所を与えて陪葬することを許しました。寿陵とは、寿穴・寿家・寿域とも呼ばれ、生前に造営しておく墓のことです。さらに、その子孫もまた父祖に従葬することを認めました。昭陵の南側の俗に皇城と呼ばれるこの墓域には、妃・王・公主・宰相・孝臣・将軍など200を超える陪葬墓が、敷地2万u、周囲60qの領域に点在しています。


『隋唐文化』より
 また、290年(618〜907)におよぶ唐朝の21の皇帝のうち、昭宗李嘩の河南洛陽にある和陵と哀帝李祝の山東荷澤にある温陵を除く19の皇帝の成陵18座が、この一帯に点在しています。


『昭陵文物勝迹漫話』より