北魏末期(八柱国・十二大将軍)

 北朝の北魏は、386年、鮮卑(センピ)の拓跋珪(タクバツケイ)が今の山西省に侵入して、北涼を併合し、120年ぶりに華北を再統一したことに始まります。そしてすでに成立していた漢族王室の南朝と対峙する南北朝時代(439〜589)を迎えます。
 北魏はもともと、大興安嶺あたりから華北に入り、漢民族を征服して建てた王朝です。しかし、いったん華北に入り込むと、今度は新たにモンゴル地方を占領した遊牧民と対抗することになります。そこで万里の長城の北、陰山山脈にそって、<鎮>と呼ばれる前線基地を設け、そこに北魏王室の一族の者や遊牧民・漢民族の者を駐屯させ国防にあたらせました。大半の鎮は陰山の北斜面に位置していました。この厳しい風土が将士たちの団結を固め、加えて鮮卑族との通婚により、血統的にも融合して新しい人種をつくりあげていきました。
 493年、高祖孝文帝(コウブンテイ・471〜499在位)は漢化政策の一環として首都を平城から洛陽に遷しました。そして、民族の融和を成し遂げるため、遊牧民である鮮卑族の伝統を捨て、長江流域の漢民族の文化を取り入れました。自らを漢化し、民族の服装も言葉も名前さえも捨てて、漢民族との一体化を図ろうとしました。しかし孝文帝の政策は、目指す理想は高く美しいのですが、鮮卑族のすべてに受け入れられるものではありませんでした。
 当然のように、鎮に駐屯している者は次第に軽視冷遇され、官途につくこともできない存在となり、いいようもない疎外感はひどくなるばかりでした。


 正光4年(523)、遂に沃野鎮(ヨクヤチン)で破六韓抜陵(ハリクカンバツリョウ)が鎮将を殺して反旗をひるがえし、さらに武川・懐朔の両鎮を攻め落としました。まもなく、ほかの諸鎮も動乱に加わりました。いわゆる六鎮(ロクチン)の反乱(六鎮とはどの鎮を指すかについては2説あり、新出土の「元懌墓誌」には七鎮とある)です。
 534年、その中から一方に懐朔鎮(カイサクチン)出身の高歓があらわれ「東魏」を建てました。やがて北斉王朝となります。
高歓の妻子の墓から出た陶俑(1979年河北省磁県出土) 『中国歴史』人民教育出版社より
 他方には宇文泰があらわれて「西魏」を擁立しました。宇文泰は六鎮のひとつ武川鎮(ブセンチン・内蒙古(ウチモンゴル)自治区武川県)の出身です。宇文氏政権は、やがて北周という3王朝を生み出すことになります。
 宇文泰の西魏政権は軍国体制をとり、550年前後に胡漢の各部隊を混成した24軍からなる<府兵制>を成立させました。徴兵制で、24軍を6人の柱国(チュウコク)大将軍に分掌させました。宇文泰自身は柱国大将軍の一人であるとともに、軍事の最高責任者として柱国の最高位を占めました。
 そして、柱国の下に十二人の大将軍をおいて2軍ずつを、さらに24人の開府儀同三司をおいて1軍ずつを率いさせました。この体制は北周王朝にも継承されました。

『中国の歴史』より
 この柱国大将軍や大将軍に任命された人々の出身をみると、多くは鮮卑族などの胡族で、そのなかに長安近辺の豪族が混ざっています。これらの胡族系の人々の中で、宇文泰と同じ武川鎮の出身者が多いのが目立ちます。武川鎮軍閥の団結は、北周王朝になっても、いささかも変わりませんでした。
 八柱国大将軍の一人に李弼(リヒツ)がいて、子が李曜(リトウ)、孫が李寛(リカン)、曾孫(ヒマゴ)が李密(リミツ)です。
 もう一人、これとは別の李氏に李虎(リコ)がいて、子が李モ(リヘイ)、孫が李淵(後の高祖)です。李淵の母の独弧氏は独弧信の娘で、隋文帝の独弧皇后と北周明帝の独弧皇后と姉妹です。したがって、李淵は煬帝と母方の従兄弟にあたります。さらに李淵の妻、すなわち後の竇皇后の母は、北周の文帝(宇文泰)の娘(襄陽公主)ですから、宇文泰の孫にあたります。
 北周王朝は隋の文帝楊堅(ヨウケン)に滅ぼされましたが、その隋王朝の楊氏は十二大将軍の1人で、一段と格の落ちる家柄でした。開皇元年(581)2月14日、文帝楊堅は北周の静帝の譲りをうけて帝位につきました。しかし、武川鎮以来の軍閥将校の中には、隋の王室よりも家格が上だと信じ込んでいる者がいます。彼らは、楊氏が横合いから出て天子の地位を掠(カス)め取ったことに対して、強い嫉妬と反感を抱いていました。
 その上、文帝が南朝征伐の際に、軍隊に賞与を出しおしみしたことでひどく評判を悪くしました。この軍人たちの不満を解消する方策として、文帝は高句麗征伐を決行しました。
 一般に軍人というものは欲張りなので、戦争に参加した者は賞が薄いといって不平を言い、参加しなかった者はこの次の戦争にはと意気込みます。そこで相手が異民族の高句麗なら、戦勝のあと、どんな暴行でも略奪でも許してやろう、こんな了解のもとに開始された高句麗戦争は初めから大義名分が立ちませんでした。当然のこと失敗します。


煬帝 (人民教育出版社『中国歴史』より)