西王母東王公故事図

 この門楣は、幾何学的な模様で縁取られています。
 画像の下部にいるのが東王公、すなわち中国男仙の領袖で、東華帝君とも東王父ともいい、霊妙な力を持ち長生不死で、不思議な術を得て昇天するという男性の神仙です。『神異経・東荒経』には、東荒山の大石室に住み、長1丈、頭髪は白く、人身で鳥画、虎の尾を持つとあります。
 門楣には、この神仙である東王公が西王母を訪れた場面が刻されています。西王母は、姓は楊、名は回といい、西方の崑崙山に住んでいる仙女です。『爾雅』に、四荒(荒は大地の果ての近辺)の一つとして西王母を挙げていることから、西方の異域の知名・国名に由来するとも言われています。『荘子』には既に、道を得た神火ととして西王母の名が見えますが、『山海経』では豹尾で虎歯、勝(髪飾り)を頂いた、と恐ろしげに西王母を記載しています。
 『穆天子伝』には、周の穆王は西征して瑶池(仙人のいる池)のほとりで西王母に会ったとあり、いささか人間化した西王母が出現します。なお、『山海経』の中でも新しく付加した部分に、西王母は西極の神仙で、崑崙山にいるとされています。この崑崙山は神話学でいう「大地の中央」の山で、そこにいる西王母は全世界を秩序づける絶対神としての性格を持っていたと思われます。
 左端には月があって、その中には鬼と蟾蜍(ガマ)が描かれています。それは羿(ゲイ・尭の人で射に巧みな人)が、西王母に請うて得た不死の薬を、その妻姮蛾がこれを盗んで飲み、仙人となって月中にはしり、月の精(一説に蟾蜍)となったという神話の「嫦蛾月にはしる」にちなんだものです。「嫦」は「姮」の俗字で、姮蛾のことです。
 西王母の不死の薬については、医学書の『医心方』に見られます。巻26の「延年方」には、「西王母四童散方」により幼児のように若返る処方が載せられています。また、同巻「避邪魅方」には、「西王母玉壼方」として、一丸を頭上に付けて歩げば何者も恐れず、喪中の家に行くとき一丸を身体に帯びていれぱ百鬼を避ける、と抄録されています。
 右端には太陽があって、その中には烏がいますが、これは「日中有踆烏」という伝説を表現したものです。西王母は三羽の烏に引かせた輿に乗り、まさに月宮殿に到着したところを表わしています。
 髪に飾りをつけた西王母のそばには、人間や鳥の形をした侍者がいて、兎が仙薬をついたり、蟾蜍がなにか動作をしています。池にも犬や兎のような動物もいます。
 このような画像石の図案は大変めずらしく、また着想も構成も優れています。前漢時代末年に西王母信仰の爆発的な流行があったことが『漢書』に記録されています。おそらくそれ以降、西王母は広く民衆の信仰を集める神となったと思われます。西王母の面像が画像石や鏡の紋様、銘文の上に出現するようになるのもこの頃のことで。また西王母と対をなす、東王公も後漢時代になって登場します。
 魏晋南北朝時代、早創期の道教教団は、西王母を神仙の一人として取り込み、道教修行者のもとに西王母が降臨して教えや経典を授けるという道教伝説も形成されます。また、漢の武帝のもとに西王母が降臨し、3000年に一度だけ実を結ぶという王母甘桃の実・仙桃3頴をささげたという小説『漢武帝内伝』も、こうした道教伝説を基礎にしたものです。なお、道教教理の中では、西王母は九霊太妙亀山金母・太虚九光亀台金母元君などと呼ばれ、女仙たちの統括者とされています。
 時代が下るとともに、西王母は正統の道教よりも民間信仰の中で、不老不死の女神として崇信を集め、王母娘娘とも呼ばれています。とくに、3000年に一度だけ実を結ぶという王母甘桃の実・仙桃(蟠桃)が熟するとき、神仙たちが集まって西王母の長寿を賀する蟠桃会が開かれるという伝承は、『西遊記』などの小説や戯曲の中に取り入れられています。
 また、現在の民間伝説の牛郎織女の物語にも見えるように、天界の支配者として大きな権力をふるっています。