昭陵六駿

 唐の太宗は貞観10年(636)、九嵕山に文徳皇后を葬りました。昭陵と呼ばれます。この海抜1188mの九嵕山は、渭水の支流である水の上流、北嶺山脈の南に位置する山です。
 咸陽(西安空港)の西北にある礼泉市の十字路を東南に折れ、趙鎮をぬけ、さらに進むと昭陵博物館(李勣墓)に着きます。その遥か北方に聳えるのが九嵕山・昭陵です。
 九嵕山の山頂から眺望すると、西に梁山、東に嵯峨山などが聳え、前面には漢中平野を隔てて遠く太白終南の請嶺と相対し、漢中平野の中央を渭水が東流しています。
 太宗は、この山に自らの陵墓も造営しようとして、貞観11年から寿陵の造営をはじめ、貞観23年8月、太宗をここに葬るときまでに完成しました。
 太宗は、寿陵をここに造営したときに家臣の陪葬を許したので、九嵕山の山上から山下にわたって陪葬者、すなわち7王、21公主、8妃嬪、13宰相、64功臣、および三品以下53、あわせて166人の、あるいは200を越えるという墓が、武人は左、文人は右に、公主妃嬪は山上に、功臣将相は山下にと配置されています。その規模の盛大さは古今無比です。
 しかしその後多くの碑石が散佚し、なかには墳丘の形を失ったものさえあります。明末に趙がここを歴訪したとき、現存する碑石は25を数えたといいますが、現在では墓の的確に識別できるものは20とありません。
 文徳皇后の陵墓は、葬費を節約するという皇后みずからの遺言によって、自然の山である九嵕山の山頂に造営しましたが、太宗の寿陵はこれと違い、山頂に玄武門や寝殿を造りました。
 しかし378もあったという陵園内の建造物は唐時代末に壊され、喪失してしまいました。現在でも、真南の山下の朱雀門の門闕と献殿、山の北側の玄武門や祭壇などの跡には磚や敷石などが残っています。
 祭壇内には外蛮夷秋の14国の君長の石刻像がありましたが、現在は像の基座のみがようやくのこと当時の面影をとどめています。
 また、陵墓に通じる廊下に(初代高祖の陵墓である献陵の前に一対の石虎の像が置かれたように)、左右3石ずつ、愛馬6頭の石彫を配しました。
 この6頭は、太宗が建国の大業を成し遂げるまでに、幾多の困難辛苦を共にした馬で、東側に右向きの特勒驃(トクロウヒョウ)・青騅(セイスイ)・什伐赤(ジュウバツセキ)、西側に左向きの颯露紫(サツロシ)・拳毛(ケンモウカ)・白蹄烏(ハクテイウ)を2列に配置しました。これを「昭陵六駿」と呼んでいます。
 この六駿のレリーフに、太宗自ら賛を作り、歐陽詢に命じてそれを書かせ、座石に刻したと伝えられています。しかし現在では刻銘はすべて失われてしまいました。
 また、高宗の時、殷仲容に詔して刻させたという座石も、宋代にはあったと伝わりますが、今ではなくなってしまいました。
 が、幸いなことに6駿の石刻は、石刻芸術室の中央に、右側に颯露紫・挙毛・白蹄烏、左側に特勒驃・青騅・什伐赤が展示されています。
 しかし、そのうちの颯露紫と拳毛の2石は、かつてアメリカに運びさられ、現在ではフィラデルフィアのペンシルヴァニア大学博物館に収蔵されています。
 この六駿は、いずれも誇るべき名馬であったばかりか、太宗の天下平定という一大事業に加わっただけに、太宗の愛着は、その賛にうかがい知られます。

 颯露紫は太宗が東都(長安)の王世充を邙山に討ったときに騎乗した駿馬で、赤毛の尾の、黒毛の馬だったといいます。
 石刻の場面は、悪戦苦闘の最中に敵の矢にあたって傷つき、太宗の身も危きに瀕したとき、忠臣のひとり邸行恭がその身の危険もかえりみず、いち早く自分の馬を太宗に進めて脱走させました。邸行恭は、さらに颯霧紫の胸に当たっている矢を抜き捨てて、敵を防ぎながら帰還しました。石彫の邸行恭は戦袍(鎧の上に着る衣)をまとい、胡簶(矢を入れて身につける具)を下げ、左足を出して踏ん張り、矢の飛来した方向に背を向け、矢を今まさに両手で引き抜こうとしています。
 颯露紫の後足は、やや後退りぎみで、あたかも邸行恭が抜き取りやすいような姿勢を取っています。人と馬とが一体となって、その渾身の力がこの矢に集中されていて、勇壮で激しい気力に満ちたシーンが表現されています。

 拳毛は、太宗が劉黒闥を討ったときの黄毛の名馬で、前に6本、肩に3本の矢を受けました。原石にも何本かの矢がささっているといわれています。
 この拳毛は、隋の仁寿宮を修復した九成宮(萬年宮)が完成した折、許洛仁が進呈した馬です。許洛仁は、あざなは濟、幼名を洛児といい、博陵安喜(河北省定県)の人です。官は冠軍大将軍・行左監門(宮門の守護)大将軍に至りました。龍朔2年(662)85歳で亡くなり、代州都督を贈られ、勇と諡されました。

 白蹄烏は、薛仁果を平げたときの駿足な名馬です。毛並みは黒で、ひずめだけが白かったといいます。風を追うように駿足で、石彫も疾走している姿が表現されています。

 特勒驃は、宋金剛を平定したときの敏捷で果敢な名馬です。黄白色の毛並みで、喙がかすかに黒色を帯びていました。太宗の賛によると、「険に入りては敵を摧(くだ)き、危に乗じては難を済った」とあります。石彫は左脚をあげて闊歩しており、往時の堂々とした名馬の姿がしのぱれます。

 青騅は、蒼・白の雑色の馬です。太宗が洛陽の塔建徳を攻めたときの足の軽い駿馬です。この馬は、足の軽やかなこと電影にも勝っていたといいます。石彫は四肢をのばして疾走している姿が表現されています。

 什伐赤は、太宗が王世充・竇建徳を平定したときの純赤色をした駿馬です。太宗の賛によれば、什伐赤は前に4本、背中に1本の流れ矢を受け、朱汗を流し力尽くして凱旋したとたたえています。石彫の姿は、全力をあげて戦場を走っている瞬間を表現しています。
 石彫の原石は一定ではありませんが、だいたい高さが165p、幅が200pの大きさです。この巨大な石に、六駿のどれもが高い半肉彫りで、ちょうど丸彫りを見ているような自然な彫りかたをしています。颯露紫のように立っているもの、白蹄烏・青騅・什伐赤のように疾走しているもの、特勒驃のように闊歩しているものなどが、うまく組み合わされ変化に富んでいます。
 六駿には、たてがみに3つの辮(ベン)毛が見られます。これは当時の風習で「三花の馬飾」などと文献にある言葉に相当します。また、すべて乗馬用の鞍をつけ、しっぽもそれぞれ短く束ねられています。どれもよく均勢のとれたアラビア種の馬です。
 この六駿のレリーフは、首のふくらみ、胴や胸の筋肉の充実した弾力感、あるいはおとなしげだが気魄にあふれた顔の表情、くまなく彫り出された鞍をはじめとしたさまざまな装飾など、そのすべてが優れた写実性を示しているとともに、当時の彫刻の優秀さを物語っています。