陜西新城小碑林記

 碑文には、「陜西は漢唐の古都で、碑版が流転し、《開成石経》はその中で光輝いている。この石経は宋代に龍図学士呂大忠が、西安学府に移された後は写しとるに虚日がなかった。そのころは漢の《熹平石経》という宝物は見えなかったが、その後この宝物も出土し、清の陜西巡撫の官にあった畢沅(秋帆)は、石経の所在地洛陽でこれを拓して碑林となした。これは三輔、すなわち長安以東の京兆尹、長陵以北の左馮翊(ヒョウヨク)、渭城以西の右扶風に有名であった。明軒主席は、文武の才をもって陜西を治め、軍書の暇に碑版を収集し、文攷を徴して碑版の小碑林を創建した」とあります。
 碑文の第2行目に刻されている撰書者の宋伯魯は、あざなは芝田、陜西省醴泉県の人で、参議院議員を勤めました。
 碑文中の明軒主席はいかなる人物であるか解りません。が、明軒という字号から、宋哲元か札喝爾かと思われます。宋哲元は山東省楽陵県の人で、将軍府将軍・熱河都統を勤めました。札喝爾は蒙古人で、臨時参議院議員・善後会議会員を勤めました。
 文中に「文武の才をもって陜西を治め」とありますから、宋哲元のようにも思われますが、『陜西省軍政民政司法職官年表』には、見当たりません。
 立石の年については、碑文の末尾に「民国戊辰歳夏4月」とありますから、中華民国17年(1928)と解ります。また最後に小さく、刻者は孫応基と刻されています。
 因みに、中華民国15年(1926)11月には、標準草書を完成し、碑林にある北魏の墓誌銘の大半を寄贈したことでも知られる于右往先生が陜西省主席に任命されています。
 この碑の書は、今から約70年ほど前の新しい物ですが、行書といっても楷書を思わせます。線は清澄で伸び伸びしていて、字形は端正で隙を見せず、造形にゆとりがあります。碑文としての新しい書の分野を開拓しているように思われます。