蟻光炎先生墓表

 于右任は、中華民国の官僚・書家で、あざなは伯循、太平老人と号し、三原(陜西省)の人です。幼いとき家が貧しく苦学し、17歳の時すでに西北の奇才と呼ばれました。光緒27年には科挙に合格しています。
 光緒32年(1906)には、日本に留学し同盟会に入会しています。のち帰国して、『民立報』を経営・執筆し、革命思想を鼓吹しました。
 民国元年(1912)、南京臨時政府の交通部次長代理となりました。第二革命が起こり、『民立報』が発禁となってからは、上海で書画を収集し、また自らもそれを楽しみました。
 1918年以後は、靖国(セイコク)軍を起こしたり、それに失敗しては広東で国共合作をすすめました。また上海大学の創立にも力を尽くしました。
 1924年、孫文に従って北上し、彼の死後、国民党中央執行委員となり、右派の領袖として権力を持ちました。
 1926年には、ソ連から馮玉祥をむかえ、国民連合軍を作り、北伐軍に参加したり、武漢南京政府の要職を歴任しました。
 解放後は台湾にわたり、国民政府の監察院院長として活躍し、1964年(民国53年)、86歳で亡くなりました。
 于右任は、1924年、洛陽の骨董商から、漢・晋・北魏・北斉・北周・隋・唐などの碑・墓誌、290金石を購入しました。いわゆる「鴛鴦七誌斎」蔵石です。これを、1939年、碑林に寄贈しました。
 書は、王羲之を学び、深く碑学を研磨し、遂に「標準草書」を完成し、草聖と仰がれました。この標準草書には、書法にとらわれない超俗的な風韻があり、中国・台湾をはじめ、日本にも多くの弟子がいます