徐翼所公家訓

 碑の字面の大きさは、縦が165p、横が85pです。この碑面を縦約27pの6段に区切り、1行7字の20行(第6段のみ12行)に、1字がだいたい縦3p、横が2.5pの大きさで書かれています。
 書者の董其昌(1555〜1636)は、華亭の人で、あざなは玄宰、号は思白・香光といい、晩年は思翁と称しました。
 明の萬暦17年(1589)に登第して、官は南京礼部尚書に至り、太子太保を加えられました。崇禎9年(1636)、82歳で亡くなり、文敏と追諡されました。
 彼の画は、董北苑・巨然を宗として、さらに遡って王維を追い、秀潤蒼欝、画品局絶と称されます。また書は、行楷を得意とし、遒媚暢達といわれました。元の趙子昂に匹敵するといわれる名手で、同じ頃の邢侗と共に「南董北邢」といわれました。
 董其昌の書風は明末・清初を風靡しました。『画禅室随筆』は、彼の書画に対する意見を述べた書として有名です。
 碑文の内容は、第1段が訓為父章、第2段が訓為子章、第3段の9行目までが訓兄弟章、10行目から訓夫婦章、第4段の12行目までが訓農章、第5段の6行目までが訓読章、その先最後までが訓女章と、全体を7章に分けて、それぞれ詳細にその教えを述べています。