爾朱敞墓誌・蓋

 爾朱敞(ジシュショウ)は、北魏末の権臣爾朱榮の一族で、父の彦伯は榮の従弟にあたります。爾朱はもと契胡(ケイコ 匈奴の羯種)の出身です。孝荘帝を擁立して権勢を振るっていた爾朱榮が、帝のために謀殺されると、その一族のものは帝を殺して報復し、節閔帝を立てました。これに対し、暴逆の振る舞いありとして高歓が立ちました。高歓は新進の実力者で、爾朱の一族はかれの討伐を受けて滅ぼされました。父も叔父の世隆もこの時殺されました。
 まだ少年だった敞は危うく逃れ、のちに北周に仕え、地方官を歴任したり、東征に従って武功を立てたりしました。続いて隋の文帝に仕え、邊城郡聞国公に封ぜられ、徐州総管にまで進みました。のち老年をもって致任し、開皇10年、72歳で懐州(河南省沁陽県)の自宅で病死しました。爾朱敞の伝は、『隋書』・『北史』に記されています。
 墓誌の隷書は、《赫連子悦墓誌》の隷書とは、やや風格を異にしています。左右相称が強調され、西晋期の隷書にみる、とげとげしさがなく、八分本来の古意をそなえています。漢隷の流動するリズムは失われていますが、結体も整って品格があります。北方人の望んだ復古調が漢民族により華を咲かせたといえます。やがてこの風が唐代の隷書の中心となってゆきます。隋朝の隷書はその意味での秀作が多く見られます。これは、いわばその先声をなすものといえます。