赫連子悦墓誌・蓋

 赫連子悦は、魏の太武帝に滅ぼされた夏の赫連勃勃の玄孫で、『北斉書』・『北史』に簡単な伝が載っています。子悦は、高歓に抜擢され、東魏・北斉に重用されます。かつて鄭州刺史であったとき、大いに善政をしき、「治為天下最」と称せられました。人民が頌徳碑を建てたいと上奏し、特に詔して許されたと両史に記されています。赫連子悦は車騎大将軍・廷尉卿などを歴て、晩年には太常卿を拝し、左光禄大夫を加えられました。彼は北周との和平交渉に尽力し、73歳の高齢で亡くなりました。
 墓誌の隷書は、漢碑のようにはいかないものの、この時代のものとしては清勁暢達で、一見、西晋あたりのものかと思わせます。これを羅振玉は「六朝人隷書之冠」と評しています。
 蓋には模様はなく、「斉開府僕射赫連公銘」とあります。贈官としてもっとも重い、開府儀同三司と尚書左僕射の2つをとって、その栄誉を表しています。