歩六孤氏陸須密多墓誌・蓋

 陸須密多は北周文帝の股肱の重臣、陸通の娘です。通は官大司冦から建徳元年に大司馬に進み、その年に亡くなりました。
 墓誌の首行に「歩六孤氏」とありますが、これは北方の氏族名で、北魏の孝文帝が陸氏と改めたものです。『周書』に、陸通がこの姓を賜ったとあります。
 須密多は14歳のとき、周文帝の子、譙国公倹に嫁し、天和元年(566) 、轁国夫人を拝しました。建徳元年、わずか21歳で亡くなりました。夫の倹は2年後、爵を進めて王となりました。
 この墓誌の書風は、鄭道昭に至る北方の一派で、隷法をとりいれた寛綽な構成は摩崖の大字には珍しくありませんが、このような細字で成功しているのには驚かされます。この時期として筆の変化の妙を極め、女性の墓誌らしい品格があります。