侯剛墓誌・蓋

  『魏書』によると、侯剛は、微賤の出身で、宮中の料理方に採用され、目はしのきくところから、次第に出世して、孝文帝・宣武帝に親任されて顕官となりました。粛宗孝明帝の擁立につくした功績で、ついに武陽県開国侯に封ぜられ、やがて爵を進めて公となりました。そして、両都・三帝・二太后に歴任しました。
 中間、ある事に座して官を解かれたり、晩年、党争にまきこまれて封爵を奪われたりしましたが、恩恵をよいことに悪事を働くようなことはなく、61歳という天寿を全うしました。
 彼の履歴は、史・誌ともに詳しく書かれていまが、誌にあえて書いていないことが史には見られ、史には見られない事柄が誌には記すなど、相違があります。その意味でも、史・誌ともに貴重な資料といえます。
 誌文の末に「侍御史・譙郡載智深文」と明記されています。墓誌銘に撰者の名を記した現存最古の例です。また、史に永安年間(528−530)に司徒公を贈られたとあります。死後数年にして贈官され、近臣に誌文を撰させたことから、晩年野に下っても、なお尊重されていたといえます。
 書は円勢で古雅、温かな品格の高い書で、《崔敬邕墓誌》に近似しています。蓋は題字を中心に、井桁に区画され、上下左右に外側にむけて雲中の鬼神、四隅にそれぞれ蓮華文が刻まれています。またその周囲の斜側面には、中国古来の伝統的な装飾、側面には波状唐草文が巡らされています。また、墓誌石の側面には、四方とも唐草風に図案化された雲文を背景として、鬼神のそれぞれ相対する姿が刻されており、その地位の高かったことが知られます。