元簡墓誌

 元簡は、あざなは叔亮。高祖文成帝の子で、献文帝の弟にあたり、孝文帝(拓跋宏・元宏)の叔父になります。孝文帝の太和5年(481) 、斉郡王に封ぜられ、官は太保に至りました。
 『魏書』(文成五王伝)によれば、生来の酒好きで、公私の事を理すること能わず、妻の常氏はたいへん厳格な婦人で、酒をやめさせようとしましたが、盗んだり侍女に強請したりして、ついに禁ずることができなかったとあります。
 建立年月について、『西安碑林書法芸術』では太和23年(499) としていますが、疑問です。『魏書』によれば、簡が亡くなったとき、あたかも病床にあった孝文帝は、叔父の死を悲しみ、詔して霊王と諡しましたが、世宗の時、諡を順王と改めました。しかし、墓誌には「諡曰く順」とあるのみで、正月に薨じ、その年の3月に埋葬したとあります。諡を順としたのは世宗の時で、埋葬された時は霊だったはずです。趙万里氏の『漢魏南北朝墓誌集釈』では、これを史文の誤りとしていますが、疑問があります。伏見先生は、誌文が半分以上断闕しているので解りませんが、他に例があることから、あるいは後に王妃を葬るとき、墓誌も替えられたかもしれない、としています。
 《元簡妻常妃墓誌蓋》で解説しませんでしたが、『魏書』には、元簡の死後、子の祐が封を継ぎましたが、高祖は母の常氏を納れるとき礼をもってしなかったという理由で、妃と称することを許しませんでした。しかし、世宗の時になって、詔して特に斉国太妃としました。これによって、ずっと後になって王妃常氏が合葬されたことが立証されます。さらに、諡の霊王を順王という良い名に改めたのも、常氏が太妃に拝せられたのと同時だと思われます。
 また、《元簡妻常妃墓誌蓋》の様式は、太和〜正光期(524年以前) のものは発見されていません。この様式の墓誌では孝昌元年(525) の《元顕魏墓誌》が最も旧いものとされています。常妃を葬ったのも、この《元簡墓誌》が改製されたのも孝昌年間ではないかと思われます。
 書は、刻にもよりますが、清勁ですがその線に張りが見られません。同時期の《元熙墓誌》(太和20年)に比べ、結体もややくずれ、用筆ももたついており、太和〜正光期より、孝昌期のもののように思われます。