元天穆墓誌

 元天穆は爾朱栄の功臣で、『魏書』(神元文諸帝子孫伝)に詳しい叙述があり、『帝紀』その他にも散見します。
 爾朱氏は奚種に属する一部族の酋長の家柄で、爾朱栄のとき、「六鎮の乱」が起こり、これを討滅した栄は、自分の本拠地の山西の晋陽を中心とする広い地域の武将を次第に帰服させました。やがて荘帝を擁立して天下の実権を握りましたが、荘帝は栄を畏れはばかり、事に託して召しよせ、殿中で殺してしまいます。
 元天穆は爾朱栄に異常なほど重んぜられましたが、やはり荘帝に畏憚され、栄と同日に、宮中の明光殿において暗殺されました。
 爾朱栄の弟の兆は、報復のために洛陽に入って荘帝を執え、晋陽に連れ帰って殺し、長広王曄を立てました。しかし、爾朱栄の従弟世隆は、曄を廃して広陵王恭を立てました。これが節閔帝で、普泰と改元しました。
 ここにいたって、爾朱氏の功臣であった天穆は、侍中・丞相・都督十州諸軍事・柱国大将軍・仮黄鉞・雍州刺史を贈られ、武昭王の礼をもって、厚く改葬されました。
 この墓誌の書は、異体字など《荀景墓誌》と非常によく似ています。あるいは同一人ではないかといわれています。