元暉墓誌

 誌文によれば、元暉は、字は景襲、拓跋氏が独立してはじめて代王を称した拓跋什翼犍(昭成帝)の6世の孫で、常山王素連の孫・河間公於徳の子です。太和中(477〜499)に、国子生の官から司徒参軍事に抜擢されたのをふり出しに、世宗宣武帝(拓跋元恪)が即位すると、尚書主客郎を拝し、給事黄門侍郎に至りました。彼は治国理政の道を微に入り細にわたって陳述し、世宗に大いに親寵されました。
 次の粛宗孝明帝のときには、侍中・右衛将軍、ついには侍中・尚書左僕射に至りました。亡くなって都督中外諸軍事・司空公・領雍州刺史を贈官され、文憲と諡されました。
 墓誌は元暉を褒めたたえる文章で終始しています。しかし、『魏書』(昭成子孫伝)の彼の伝には、あまり良いことは書かれていません。世宗には「補益なしといえども、深く親寵せられ」宮中で大いに権力をふるい、「餓虎将軍」と陰口を言われるくらい賄賂を取ったぱかりか、外任して冀州刺史となると、「重税を課して厳しく取り立てること極まりなく、百姓はこれを悩み憂いた」とあります。
 墓誌の記載とは正反対の記述です。出土したばかりの金石資科といえど、無条件に信頼できない例の一つといえます。また逆に『魏書』には、「神亀元年卒」とありますが、墓誌には「以神亀2年9月庚午遘疾薨於位」とあり、この記載は墓誌が正しいと思われます。
 書はいわゆる北朝風ではなく、刻も精細で、完成された唐代の楷書を思わせるような、北魏晩期の完成された姿を見せています。北魏には早くからこのような風があり、南朝との交流を裏付けています。
 北魏は、孝文帝の太和18年に洛陽に遷都しました。それから孝明帝の神亀2年に至る25年間に、鮮卑族の風俗習慣・言語・文字は漢化されました。書法も社会の文化事業の発展に伴い、中期の奔放雄奇・厳謹剛健な書風から、嫻熟自然・瀟灑清逸へと変化しました。このような南朝人の書は日常筆書体であったと思われます。
 《元暉墓誌》の書は、北魏晩期を代表する清新で優れたものです。用筆も剛柔相まって、緩急を具えています。結体の均衡も素晴らしく、端凝剛勁の中に俊秀の気を感じます。また、この墓誌より3年早い《崔敬邕墓誌》の書に近似しています。ただ、最後の5〜6行の上半分くらいの約100余字が気になります。筆画が顕著に較粗で、他の部分と協調しません。しかし、結構は全誌を一貫しています。どうやら、書いたのは1人ですが、刻したのは2人だったのではないかと思われます。
 《元暉墓誌》の温雅で整斉な書は、《木簡》《李柏尺蹟》《六朝写経》とともに、唐朝の王羲之一族の書風研究の基礎となるものと思われます。
 墓誌の側面には、それぞれ雲中の四神を線刻してあります。墓誌石は通常、北面にして置かれるので、下側面に北方の玄武、上側面に南方の朱雀、左側面に東方の青龍、右側面に西方の白虎という配置になっています。いずれも向かい合う一対の紋章風な表現をとっており、装飾的意図が濃いものとなっています。四神の形態は、6世紀頃の高句麗古墳の壁画に描かれたものに、ほぼ近いもので、体躯を奇妙に長く引き伸ばされた白虎の類似には著しいものがあります。