苟景墓誌・蓋

 誌文によれば、霊太后が少年の粛宗を殺し政権を握ろうとした時、爾朱栄一派がこれに抵抗して洛陽にせまりました。河南洛陽出身の苟景はこれに味方し、荘帝を擁した爾朱に撫軍将軍・金紫光禄大夫を授けられ、その後、博野県開国伯に封ぜられ、さらに爵位を進めて公となりました。しかし苟景はその年に亡くなり、衛大将軍・儀同三司・冀州刺史を贈られました。
 この墓誌の書風には、一種異様なものがあります。それは異体字と呼ばれる一群で、この時代から徐々に釀成されていく北方独自の復古的趣味と、独特な書法の伝承によると考えられます。北魏初期の清俊な用筆・結体を捨てて、篆書や隸書の要素を多く取り入れようとする意識がうかがえます。
 また唐の中宗の《景龍観鐘》に見られる奇異な遊戯的な飛白体に通じるような破格な書き方にもつながるようにも思われます。そして全体としては、線の太さの変化に乏しく、やや重苦しく感じます。