元煥墓誌・蓋

 元煥は、字を子昭といい、顯祖獻文帝の子・高祖孝文帝の弟・趙霊王幹の孫にあたります。元煥は、趙霊王幹の子・趙孝懿王ェの子ですが、継父の廣川悼王霊遵(霊道)のあとを継ぎました。廣川悼王霊遵は、顯祖獻文帝の弟の廣川荘王略の孫で、その子の廣川剛王諧の子です。
 元煥痕は、21歳で、寧朔将軍・諫議大夫となりましたが、その年に亡くなり、龍驤将軍・荊州刺史を贈られました。
 書は渾厚で、やや重苦しさも感じますが、整正なもので、北魏の遺風を良く伝えています。
 誌文の末に、生家の祖父母と父母、継嗣した家の曽祖・父の配偶者の官衡と出自を記しています。こうした例は他にも見られますが、この墓誌は特に詳しく、『魏書』などの訂補に役立ちます。例えば、『魏書』には継父の名前が「霊道」になっていますが、墓誌には「霊遵」とあります。また『魏書』では諡を「悼」としていますが、墓誌では「哀王」とあります。いずれも墓誌が正しいと思われます。
 この墓誌のように框廓を作って特異な装飾書体を填満する手法の蓋の題字は、漢代の碑に始まります。また、墓誌銘に蓋を用いて、誌面の文字を保護する役目と、碑額の壮重な感覚を与える目的とを兼ねさせることは、この頃から始まります。蓋の四隅が欠けていますが、これは鉄環が嵌められていた跡です。