張偉庵処士家伝

 郭尚先は、福建省嵊田の人で、あざなは元聞・蘭石・伯柳などと号しました。嘉慶14年(1809)に進士に合格し、翰林院編修から累進して光禄卿となり、大理寺卿在任中の道光12年(1832)に亡くなりました。その間たびたび郷試の試験官となっています。学問がひろく、経史(経書・歴史書・諸子類・詩文集)のほか、諸子百家・輿地・象緯の学にわたっています。また鑑別に精しく、書画に巧みでした。
 書は嘉道間(1796〜1850)の大家で、敬客の塼塔銘の室に入って媚秀逸宕と称せられ、とくにその行書は、顔真卿の《争坐位帖》より出て、中年以後は董其昌と斉馳するといわれました。当時、同じ福建省出身の梁章鉅・林則徐とならんで三妙と称せられました。また、この3人の書は非常に良く似ているという評判をとりましたが、その中でも郭尚先が一番優れていたようです。
 画はもっとも蘭竹をよくし、筆力峭勁をもって称せられました。著に『増黙菴遺集』『芳堅館題跋』があります。