游華山詩

 林則徐は、清末の政治家で、乾隆50年(1785)、福建省で没落した知識人の家に生まれました。嘉慶16年(1811)、父の期待を担って進士に合格、エリートコースの翰林院から地方官の要職を歴任し、道光17年(1837)湖廣総督に昇進しました。この間、水利事業などに功績をあげて人望を得ました。
 この頃アヘン問題が内政の最重要課題となり、道光帝の諮問に応じてアヘン厳禁輸を上奏し、自分の管内の湖北・湖南で厳重な取締を行って功績をあげました。彼は欽差大臣(特命によって派遣される臨時の大臣)・両江総督に任命され、道光19年初めに広州に着任し、アヘン20000箱分を没収して焼却、外国アヘン商人を国外に追放しました。
 こうした措置に反対したイギリスが艦隊を派遣して、道光20年(1840)アヘン戦争が始まりました。林則徐は「一歩退げば、敵はさらに一歩踏み込む」とし、持久戦・ゲリラ戦などによって徹底的に抗戦しましたが、イギリス軍の攻勢におびえた清朝宮廷が和平論に傾いたため、免職されました。さらに翌道光21年には開戦の責任を問われてイリ(新疆維吾爾(シンキョウウイグル)自治区北西部地方)へ追放の処分を受けましたが、たまたま黄河が決壊したため、その補修工事を監督・完成させ、道光22年、イリに赴きました。
 道光25年(1845)赦免され、陜甘総督となり、翌26年には陜西巡撫、27年には雲貴(雲南・貴州)総督に任命され、雲南では回族(イスラム教徒)と漢人の紛争調停にあたりました。
 道光29年(1849)辞職して帰郷しましたが、翌年、農民反乱(のちの太平天国運動)の鎮圧を命じられ、欽差大臣として広西に赴く途中、道光30年、潮州で病気で亡くなりました。
 彼は愛国者であると同時に合理主義者でもあり、西洋近代文明の優秀さに着目した最初の中国人の一人でした。