古柏行

 龐岩(巖・嵒)とは、任詢の号です。任詢(正没年不詳)は、あざなは君謨、南麓とも号し、易州(河北省)の人です。金朝の海陵王の正隆2年(1157)、科挙に合格して地方官になりました。しかし栄達せず、64歳で官を退きました。郷里にもどって自適の生活を送り、家蔵の書画数百軸を愛玩し、70歳で没しました。
 任詢の父の任貴も画を良くしたとされますが、任詢は当時にあって第一の書人とされ、画も妙品であるとされます。書画詩文に優れていましたが、彼の画は書より良く、書は詩より良く、詩は文より良い、という評もあり、王庭筠(オウテイイン 1151〜1202)のみが任詢の才能を理解出来たともいわれています。
 任詢は、顔真卿風の書風を良くし、楷書では《完顔希尹神道碑》が知られています。完顔希尹(カンガンキイン ?〜1140)は金初の重臣で、女真文字を作った人物です。北宋で顔真卿の書は高い評価を得ましたが、金朝にも影響を受けた人物がいたことになります。
 この《古柏行》は、杜甫の「古柏行」を書いたもので、顔真卿の《祭姪文稿》や《斐将軍詩》などに似ています。《古柏行》には、龐巖という落款があり、『墨林快事』は龐巖を姓氏不明として、その書は顔真卿より出ており、顔真卿より峻峭で、蘇軾や米芾の習気がなく、この時代の行草書のなかで特出している、としています。一方、元好問(1190〜1256)は、任詢の書について、年老いた法家が裁判をするようで、峻峭すぎて恩が少ない、と評しています。
 しかし、彼の書は楷行草が渾然一体となり、新鮮昧を感じます。向勢の結体で懐がひろく、方にして円、重にして軽、それでいて違和感がありません。清朝に至って、鄭板橋が古籀狂草を能くして、特に行楷に篆隷の結構をそのまま取り入れ独自の書風を確立しましたが、その先駆を成すものとして興味深いものがあります。