厳公神道碑

 この碑は、厳裕漠の経歴と家譜、張森楷が撰文し、康有為が書したものです。
 康有為(1858〜1927)は、清末民初の政治・思想・書論家です。別名を祖詒(ソイ)といい、あざなは廣廈(コウカ)、長素・更生・更甡(コウシン)と号しました。晩年には天游化人と称し、広東省南海の出身なので、康南海とも呼ばれます。
 彼の家は、代々理学をもって家学としました。19歳のとき、同郷の大儒・朱次g(シュジキ)から、漢宋兼採の学を受けましたが、やがて宋学に傾きました。のち四川の廖平(リョウヘイ)の公羊学(クヨウガク 『春秋公羊伝』を正統なものと主張する学問で、清代末期の考証学に反対する革命的改良主義の立場にたつ)に強い影響を受け、内外の時局を憂い、中国の救済を真剣に考えるようになりました。この間、西洋の自然・社会学をも学び、かたわら仏教や老壮にも及び、これらを公羊学に関連させ、のちの大同の説に発展させました。
 31歳のとき、《布衣上書》という変法の案を上書しましたが、一部の官僚の共感を得たものの、保守派のために阻止されました。32歳のとき帰郷して、万木草堂を開いて、梁啓超らの俊才の弟子を教育し、『新学偽経考』などの急進的なものを書きました。
 光緒19年(1893)に挙人となり、会試のため都に入りました。このとき全土の挙人1200人を糾合し、連名で変法の上書を行ったのが、有名な《公車上書》ですが、また握りつぶされました。その後2度にわたる上書も却下されました。しかし24年には、清朝大官の中にも変法の意見が強くなり、翁同龢の建言によって、彼の上書は光緒帝に達しました。
 この年、会試に上京の挙人を動かし、保皇会を作り、諸制度の全面的な改革を企てました。しかし、西太后と保守派による「戊戌の政変」で翁同龢も失脚し、光緒帝には実権はなく、ついに「戊戌変法」は、いわゆる100日変法で終わってしまいました。この政変で身に危険が迫り、天津から上海、さらに日本へ亡命しました。
 彼の改革思想は、君主立憲政体による共和制社会の実現にありました。しかし、当初の改良思想も、亡命後は次第に後退し、光緒帝の復辟(一度退いた天子の位にもどる)運動に終始しました。その後の16年間、アメリカなどに亡命し、帰国したのは、中華民国成立後で、そのころには反動派と烙印されていました。
 1917年、宣統帝の復辟運動に参加し、弼徳院副院長を授けられましたが、運動は失敗して、アメリカ大使館の保護をあおぎました。1927年、国民革命軍が上海に迫り、青島に逃げ、失意のうちに病死しました。
 彼はこうした政治・思想家として活躍する一方、32歳のとき著した『広藝舟双輯』によって、近代書道史に名をとどめました。この著は、阮元・包世臣以来の碑学尊重の延長線上にあって、とくに包世臣の六朝碑版重視の補強と拡張に意図がおかれました。彼の六朝碑への開眼は、張鼎華(チョウテイカ)に示唆されたのが契機となりました。会試に上京したおり、ケ石如の作品や漢魏六朝碑版200本余りを入手し、また藩祖蔭(ハンソイン)らによっておびただしい金石碑版を過眼しています。
 康有為は、阮元の説は早創期のもので完備していないとしています。一方、包世臣の北派の伝統認識を一面的であると批判し、また執筆法の誤りなどを批判して訂正しました。実技面では南北を統合する見解をとりました。また彼の書の美の理念も、包世臣の〈気満〉と通じるもので、質厚で雄強さをともなった〈茂密〉を、書の普遍的な美ととらえました。彼の立論には独断が多く、誤解に基づく面もありますが、六朝書道を啓蒙した功績は大きく、『広藝舟双輯』はわが国でも広く読まれ、現在に至っています。