秣陵旅舎送会稽章生詩帖

 この碑は、縦を7段に分けて、上5段は各15行・行6字、下2段各17行・行8字に刻されています。明の書画家の董其昌が行書で書した詩を、長白達禮善が跋して立石しています。
 達禮善は陜西布政使で、当時の碑林には董其昌の作品がなかったことから、彼自身が所蔵する董其昌の作品を石に刻して寄贈しました。
 董其昌(1555〜1636)は、華亭(江蘇省)の人で、明代後期の文人です。あざなは玄宰(ゲンサイ)、思白(シハク)・香光(コウコウ)などと号しました。卒して文敏(ブンビン)と諡されました。
 はじめは上海に住んでいましたが、倭寇(鎌倉時代から室町時代にかけて、中国や朝鮮の沿海地方を荒らし回った日本人の海賊)に対する防衛工事の労役の義務をきらって華亭に移籍しました。董其昌は、芸林百世の大宗師と讃えられた明末の書壇画壇の大立者です。
 萬暦17年(1589)の進士で、エリートコースである翰林院に入り、太子常洛(のちの光宗)の日講官や科挙の試験官などを10年勤めました。ゆえあって萬暦26年に地方に転出しましたが、病気を理由に帰郷しました。それから20年間は、まったく詩書画に没頭した生活を送りました。
 光宗が即位し、泰昌元年(1620)に召し出されましたが、光宗は在位1か月で急死しました。しかし董其昌は『神宗実録』副総裁などを勤めると同時に、『光宗実録』をもほぼ一人の手で完成させ、のち礼部尚書となって、崇禎4年(1634)に退官しました。
 彼は、元の趙孟頫以後の最大の指導者として、書壇に君臨したのみならず、歴代屈指の理論家の一人でもありました。彼の出現により書画の主流は祝允明や文徴明らの蘇州から華亭に移ることになりました。
 董其昌の学書は、郡での試験で書が下手であるとの理由で第2席に落とされたことに発奮して始まりました。はじめ顔真卿の多宝塔碑、虞世南を学び、鍾孫・王羲之を3年学びました。
 若い彼の書学に重大な契機をもたらしたのは項元汴です。項との交際は20歳ごろからですが、あるとき項が蔵する晋唐の真蹟を眼のあたりにし、25歳のときには金陵で王羲之の《官奴帖》を見ました。これらの経験により、それまで考えていたことの思い違いを悟りました。そののち、項の家蔵の真蹟を見たといいますから、書画家としての彼の眼を育てるうえに、項の貢献は多大であったといえます。
 理論家として、中国絵画の南北二派論を提言したことでも有名です。その提言は絵画史上空前の波紋を投じました。また、書においても天真燗漫を理想の境地として全面に打ち出すなど、後世に多大な影響を与えました。かれの唱導した天真燗漫の境地からすれば、趙孟頫は王羲之親子の形骸だけをまねた書にすぎず、初唐の3大家も同様でした。天真燗漫の境地として評価する書人は晋の王羲之・獻之、唐の顔真卿、五代の楊凝式らです。
 董其昌の書に清の康煕帝がとくに心酔したこともあって、董風は明末清初を通じて良く流行しました。著述には詩文集の『容台集』ほか、『画禅室随筆』などがあります。