岣嶁碑

 この碑は、同じ第5室左側の第4列、ちょうど真後ろにあたる位置に陳列されている《石刻抜萃》には、《夏禹王衡嶽碑》と刻されていますが、一般には普通《禹碑》とか《岣嶁碑》とかいっています。
 碑は夏の開国の君主といわれる禹王(前2205〜2198頃在位)が、湖南省衡山(現在の新陽の北)に巡回されたとき、ここにある岣嶁峰という峰の石に、大洪水を治めた功績を記した文を刻したもので、これを《岣嶁碑》と呼んでいます。
 禹王については『書経』「禹貢」や『史記』「夏本紀」によると、三皇五帝の最後の堯・舜の時代に、大洪水が起こり、民衆が苦しんだので、舜帝は鯀に治水を命じました。しかし鯀は治水に失敗して殺され、子の禹がその業を継ぎました。禹は后稜(コウショク)とともに13年間苦心をかさね、ついに治水に成功し、禹から天下を譲り受けて夏王朝を開きました。禹の治水伝説の特徴は、ノアの洪水伝説のように自然に治まったのではなく、禹が人力を尽くして治水にあたったことが強調されている点です。
 夏王朝については、河南省博物館と中国歴史博物館とで1977年の春から大規模な発掘調査が行われ、河南省偃師県から殷王朝より古いとされる遺跡が発見されました。発掘された陶器は新石器時代最後の竜山文化の特色をもっています。また禹王が都に定めたといわれている陽城と同じ名前の遺跡が河南省登封(洛陽の南東)から発見されました。
 こうしたことから、夏王朝が実在したとすると、新石器時代から青銅器時代にうつる過度的段階にあてはまるとされています。大胆な推測ですが、近年発掘された揚子江流域の良渚文化が、舜王の文化ではないかとも思われます。根拠としては、近年発掘された馬王堆漢墓から、良渚文化の特色である「玉龍紋璧」と、玉璧がデザインされた「丁字形帛画」が出土しました。このことは、漢人が良渚文化を継承しているといえます。とすると、良渚文化の上に堆積している40僂量喫顕汁悗気になります。もしかすると、禹王は揚子江の氾濫を治水したのではなく、都を河南省偃師県に移したのではないでしょうか。
 一方で、このような大規模な治水が太古の世に行われえたとは考えられず、おそらくこの伝説は治水事業が現実に盛んに行われた戦国時代に成立したとする説もあります。
 さて、この時代の文字については、『史記』「五帝本紀」によると蒼頡が文字を創造したとあります。しかし、一人の学メによって創造できるはずがありません。蒼頡は八卦を発展させ六十四卦を作ったとされ、周の陶文などに見られる八卦を組み合わせた文字を作ったかと思われます。
 夏王朝の次の殷王朝については、甲骨文字が発見され、そのすべての王の名が確認されました。そして伝説の王朝といわれた殷王朝の実在が証明されました。しかしここで気になることがあります。それは甲骨文字の文字数があまりにも多く、しかもその中に抽象的な概念も盛り込まれて創造されている点です。例えば、「羊」が「大」で(上下に組み合わせて)「美」といったものです。羊がたくさんいると美しいとするのは放牧民族を連想しますが、殷王朝では大事な物には「貨」「貴」のように海産物である「貝」が付き、「賜」「賄」といった例も見られます。また殷王朝ではすでに中央集権的な国家ができていたようで、甲骨自体、都で制作したのではなく、どうやら地方の豪族からの貢物であったことが、甲骨の裏側の刻字から読み取れます。
 ここで注目されるのが刻画符号と呼ばれる一群です。これは土器やレンガなどに刻されているもので、仰韶・竜山期から周王朝にまで見られます。
 夏王朝が新石器時代から青銅器時代に移る過度的段階にあてはまるとすれば、甲骨文字以前、刻画符号の頃ということになります。
 《岣嶁碑》の文字は、甲骨文より新しい金文(青銅器に刻された文字)のように思われます。こうしたことから、この碑の真偽について歴代の学者が同題にしていますが、これはむしろ後人の偽作といえます。
 さて王昶は『金石萃編』に、《岣嶁碑》は雲南の昆明、四川の成都、長沙および西安の4碑があると記しています。また浙江省紹興の東南にある会稽山の禹王の廟(禹廟)と、湖南省嶽麓山(現在の湖南省長沙市岳麓区)にも碑が建てられています。これらは禹王が、その9年に大洪水を治め、その功を記したものをこのように各地に建てたのではなく、最初に湖南省南岳衡山の岣嶁峰に建て、やがて禹王が治水の縁故の地に何箇所か建てられたもので、衡山の《岣嶁碑》以外はその摸刻と見るべきでしよう。
 この碑は唐以来有名になっています。例えば、劉萬錫の「寄呂衡州詩」に   傳聞祝融峰 上有神禹銘 古石玕琅 秘文龍虎形 とあり、その名を伝え聞いたことがわかります。また韓愈の「岣嶁山詩」に   岣嶁山尖神禹碑 字青石赤形模奇 科斗拳身薤倒披 鸞瓢鳳泊拏虎螭   事嚴跡秘鬼莫窺 道人獨上偶見之 我來咨嵯涕漣洏 千捜萬索何處有 森森緑樹猿猱悲 とあり、韓愈は岣嶁山に行って探し求めましたが見つからなかったようです。
 このように《岣嶁碑》は有名にはなりましたが、その碑の文字がどんなものだったかははっきりしませんでした。あるいは道家の符緑、碑文ではないかともいわれています。明の楊慎の『升菴外集』によれば、これらの原石あるいは摸刻碑は今日伝わっていません。
 明の嘉靖年間(1522〜1566)に、太守であった藩鑑が宋時代の模刻を得て、これを岳麓書院の旁に模刻しました。今日伝わるもののすべては、この再摸刻本から出たものであるというのが通説になっています。その中の一つが清の康煕5年に昆陵の毛会建によって西安に建てられたもので、この碑の隣に陳列されている《注釈岣嶁碑》です。