嶧山刻碑(除鉉模本)

 秦の始皇帝は、始皇28年(前219)、巡幸の途中、諸所に秦の徳を頌した刻石を残しました。その内、鄒県の嶧山(現在の山東省鄒県の東南)は、『史記』によれば、その最初のものです。内容は分封を廃して郡県を立てた始皇帝の功績を称揚したものです。碑陽の144字は秦始皇の詔書で、碑陰の79字は秦2世皇帝の詔書です。
 唐の封演の『聞見記』によると、北魏の太武帝がこれを倒してしまったとありますが、石はまだ存したのに、拓本を求める人が多いのを迷惑として、その土地の人々が薪を集めて焚いてしまったといいます。のちに種々に重刻されましたが、いずれもその真意は伝わりませんでした。
 宋の淳化4年(1993)、鄭文寶という人が、その師の徐鉉から唐拓による模本を与えられ、それを石に刻して長安の国子学におきました。この碑の重刻本は他にもあるので、これを《長安本》と呼んでいます。徐鉉はもと南唐に仕えて吏部尚書の官にありましたが、のち宋の太宗に降って左散騎常侍を授けられました。弟の鍇とともに二徐と称され、文字学の大家で、今日われわれが漢の許慎の『説文解字』を読むことができるのは、全くに徐兄弟の校訂のお陰です。
 鄭文寶も南唐から宋に入った人で、官は兵部員外郎に至りました。徐鉉に学んで篆書を善くしたといいます。師が亡くなったとき、子がないので葬儀を行ったとありますから、もっとも近親していたものと思われます。この碑の跋文は彼の楷書ですが、しっかりとした格調の高いものです。
 秦の嶧山刻石は、もと、秦の丞相の李斯が書したものといわれ、書体は当時新しく創られた小篆です。この碑は、かなり元の面影を忠実に伝えているように思われます。あまりに整ってきれいな字なので古代の感覚ではないようにいう人もありますが、むしろこのように理想的な形態に整えあげたのが秦篆の風だと思います。ただ、用筆・結体に時代の風気の相違がみられるのは仕方ないでしょう。