韓昌黎五箴

 この石には、唐の韓愈が38歳のとき游・言・行・好悪・知名の5つに対する道徳的善悪を述べた「五箴」が刻されています。
 韓愈(768〜824)は、唐の文学者・思想家・政治家で、あざなは退之。韓氏のうちの名門の本籍地が昌黎だったことから昌黎韓愈と自称し、韓昌黎とも呼ばれますが、実は河内南陽(河南省修武県)の人です。25歳で進士に合格しましたが、35歳まで官途につけず地方の節度使の客人でした。のち、監察御史などを経て、官は兵部、吏部の侍郎に至りました。剛直・直言の人として知られ、思想家としては、儒教中心主義を強調して、仏教・道教を激しく攻撃すると共に、道統(儒学)を重視し、文字の解釈よりも思想に中心をおくなど、宋学に近く、その先駆者としての意義を持ちます。宋学とは、宋代におこった儒学の一派で、その時代の合理的な哲学によって儒教の教理、古典の解釈を行おうとするものです。その源流となる程莇(テイコウ)・程頤(テイイ)と、大成者たる朱熹(シュキ 朱子)の姓をとって、「程朱の学」「朱子学」ともいい、その哲学説の内容をとって「理学」「性理学」ともいいます。また、陸象山などに代表される儒教の一派があり、宋学を広く宋代の学問と考えれば、これも含むことになりますが、普通には、これを含みません。819年には、憲宗の仏教崇拝を批判して上書したため、怒りにふれて南方辺境の潮州に左遷されました。
 韓愈は当時の文壇の巨頭で、唐宋8大家(他に柳宗元・歐陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曾鞏・王安石)の筆頭に位置します。彼の文学者としての最大の業績は、散文文体の改革です。六朝以来行われていた、対句と音調を主とする当時流行の四六駢麗文に対して、自由に表現できる散文文体、いわゆる戦国・漢時代の古文に復帰することとを主張しました。そして、自らこれを実践したばかりでなく、同志にもすすめて、駢麗文と並ぶ1つの文体としての地位を確立し、古文が宋代以後、文学革命に至るまで、標準文体となる基礎をつくりました。
 一方、詩人としては中唐詩人の代表として、白居易と並んで「韓白」と称されました。文体の改革も、その目的は、彼のこの主張を人に十分に伝えるためでした。
 主論文は『原道』ですが、仏教に対する批判は、思想よりも実践面についてが主で、哲学的批判というより政治的・社会的批判といえます。
 筆者李寂についての詳細な履歴は見つかりません。しかし、李寂の篆書は、一部「五」「之」などは甲骨文を思わせるような直線的な表現にデフォルメされていますが、当時としてはよく研究されています。
 この碑は、李寂が北宋の嘉祐8年(1063)に書したものを、宣和6年(1124)に摸刻しものです。