千字箴

 王鐸(1592〜1652)は、あざなを覺斯・覺之と称し、崇樵・石樵・十樵・癡菴・癡僊道人・雪山道人・東皐長などと号しました。明末清初の長条幅の連綿書で傅山と双璧をなす大家です。
 王鐸は、河南省孟津県の人で、明の天啓2年(1622)の進士です。翰林に入り、編修の官を授けられ、少・事に進み、經筵講官となりました。崇禎17年(1644)3月、礼部尚書となりましたが、赴任するに先立って北京は清軍に陥って、毅宗は自殺してしまいます。ついで福王が河南に逃れて帝位につくに及んで、東閣大學士となり、明王朝の回復を計りましたが、順治2年(1645)5月、清軍はついに江寧城に迫り、敵対することができずに礼部尚書の銭謙益らとともに降伏しました。
 翌3年、彼は新たに清朝に仕えることとなり、『明史』編纂の副総裁を勤めました。そのため、明の遺臣からは両朝に仕えた節義に欠ける者と白眼視されました。
 6年(1649)正月、礼部左侍郎となり、9年には礼部尚書に至りました。しかし、同年3月、病を得て郷里で亡くなり、太保を追贈され、文安と諡されました。
 彼は詩文書画いずれも善くしましたが、中でも書においては特に名高く、つとに董其昌と肩を比べて賞せられました。その小指は、魏の鍾繇を学んで、さらに格調の高い書風を示しました。行草は、多くは東晋の王羲之・獻之父子を尚び、米芾の筆意をまじえて、勁険な筆勢の抑揚する逸脱の趣においては並ぶ者がないほど傑出しました。
 平生、1日法帖を臨すると、また1日需に応ずるという規則的な学書態度を終生怠らなかったといわれ、また彼自身も、書の習い始めは帖通りに書くことが難しく、終りは帖より脱することが難しい、と述べています。彼の書は、臨書・自運を通じて長条幅の物事にこだわらず、のびのびして力強い連綿行書が圧倒的に多く有名です。
 王鐸の専帖には『擬山園帖』10巻があります。これは次男の王無咎(ムキュウ)が年月をかけて探しも集めたもので、82帖が収められています。他に『琅華館帖』『亀竜館帖』、詩文集に『擬山園集』などがあります。