箴言四則

 沈荃(シンセン 1624〜1684)は、華亭(江蘇省)の人で、あざなは貞蕤、繹堂・充齋と号しました。旧くからの名族で、10世前には沈初・沈度・沈粲という兄弟がおり、世間から大小学士と呼ばれて、書を善くするので天下に聞こえました。彼は10世の孫にあたります。
 しかし彼は早く父を亡くし、困苦勉学して、順治9年(1652)に進士第一甲三番に登第、翰林院編修を授けられました。後に大梁道副使となり、乱を平らげ、賊を捕らえて治績大いに上がりました。また巡撫の命を受けて、『豫章通志』を纂修し、10余年して天下郡県に記し、彼の通志にならって地方志を修させるに至りました。彼が母の喪によって任地を去るとき、土地の人はこぞって遠くまで送り、泣いて別れたといいます。
 康煕6年(1667)直隷通薊道に補せられ、功績を上げたにもかかわらず、事の誤りから降級され、寧波府同知となりました。しかし、任地に赴<前に、たまたま唐人の詩を書いて上ったところ、康煕帝から筆跡を賞され、それで上疏して自ら弁じ、原級に復されました。ついで翰林院侍講となり、朝廷の大事な文や天子御製の碑文など皆彼が書してすすめ、度ごとに賞賜を受けました。
 康煕11年(1672)浙江郷試正考官となり、後に国子監祭・・事府少・事などにうつり、・事に進み、その後、礼部侍郎を加えられ、会典総裁となりました。康煕23年、卒して文恪と諡されました。著書に『充齋集』『沈経堂詩』があります。