華岳題名記

 陳奕禧(チンエキキ 1648〜1709)は、あざなを子文・六謙と称しました。彼は、深澤の県令であったとき、大忍寺に憩い、泉水が甘かった事から、その側に亭を作り、香泉と題しました。そして香泉を自分の号としました。さらに晩年、呉県の葑門に家を構えたことから、葑叟とも号しました。海寧(浙江省)の人で、歳貢生から安邑(山西省)丞となり、深澤県(直隷)令に抜擢され、康煕33年(1693)戸部郎、43年石阡(貴州省)知府となり、南安學宮を修築し、郡志を編修しましたが、わずか半年ほどで任地で卒しました。
 以前、彼は夢を見ると決まってある場所が出てきました。そこは園亭山石極めて奥深くてもの静かで趣があり、垣の外には寺と塔があり、心で甚だこれを楽しみました。その後何年かして南安へ行くと、役所はまさに夢で見たところでした。人が悪くいう貴州へ行っても、彼は楽しく受け取っています。
 姜宸英とはことに親しくしました。康煕15年(1677)には、姜が彼を海寧に尋ねて、夜を明かして書のことを語り合ったりしています。また彼は旅中の至るところで、書を請われ、鑑定を頼まれています。
 王士モフ『分甘餘話』に、彼が秦・漢・唐・宋以来の金石文字の収蔵がもっとも富んでいたことを記していますが、彼の『金石遺文録』10巻は、『四庫提要』の中に、存目ながら上げられています。
 早くから聖祖に知られて内廷に出入りしましたが、彼の書としては、石に勒したものに《予寧堂帖》、世宗が雍正11年(1733)に刻させた《夢墨楼帖》10巻があり、晩年に書を論評したものに《緑陰亭集》2巻、《隠緑軒題識》1巻をはじめ、《皐蘭載筆》《益州于役記》《春靄堂集》《虞州集》などがあります。