顧荃士墓誌

 誌文によれば、顧夔は、あざなは卿裳、荃士と号しました。華亭婁県の人で、そこは現在の江蘇・松江の県境です。官は翰林院士を勤め、山西霊石県知県に至りました。
 顧夔はまた、王苞孫らと泖東詩社を結びました。彼の詩には美しいものが多く、唐の遺風が感じられます。当時一流の風雅文人であったと思われます。
 撰文をした張祥河も華亭の人で、道光・咸豊時代に陜西巡撫を勤めました。彼は顧氏の家系と婚姻し、親戚関係にあったことから墓誌の撰文を担当したものと思われます。
 書者は何紹基です。何紹基(1799〜1873)は、清代の書家で、学者でもあります。あざなは子貞、東洲と号し、また蝯叟とも号しました。湖南道州の人で、道光16年の進士です。官は編修を授けられました。群書を博渉し、もっとも『小学』に精しく、また金石碑版を究め、この道においては阮元に訓導を受け、包世臣とも交わりがありました。詩に巧みで、宋の蘇東岐・黄山谷を好みました。書は始め唐の顔真卿を学びましたが、後に孤本で名のある《張黒女墓誌》を大いに学び、得るところが大であったといいます。加えて、周・秦・漢・六朝・隋・唐の碑までもよく研鑽し、抜きんでて一家を成しました。とくに草書は当時最も評判になりました。清時代の書を語るに欠くことのできない存在です。