王維画竹子

 この綫刻画は、唐代の王維の画を、宋代の游師雄が題跋して、兪直夷が摸し、郭皓が模し、孟永が刻したものです。
 王維(701?〜761)は盛唐の詩人・画家で、あざなは摩詰、太原府の祁(山西省太谷県)の人です。少年時に長安に上り、美容と音曲の才によって、帝都貴顕の寵児となりました。21歳で進士、登第して大楽丞に任ぜられましたが、すぐ行きづまって済州に流され、数年後に官をやめて、静かにl川で暮らしました。その間、仏道を修め、詩画にいそしみましたが、31歳で妻を失い、その後再婚せずに母の崔氏に孝をつくしました。
 35歳でまた宮仕して右拾遺となり、左補闕、庫部郎中、文部郎中を経て56歳で給事中となりました。その間(天宝年間)宮廷詩人の第1人者として盛唐の詩壇に君臨し、玄宗の勅を奉じて作った詩に、宮廷の栄華を格調高く描きました。休暇にはl川の山荘に俗塵をさけ、清逸な詩句と水墨山水画の制作を楽しみました。
 安禄山の乱がおこるや反軍に捕らわれ、洛陽の賊の朝廷で給事中の任を強制されましたが、唐朝の復興を祈る至誠の作詩によって、乱後罪をまぬかれて復官詩、3年後に尚書右丞に昇進しましたが、数か月にして61歳で病死しました。
 彼は純情高潔で、常に王右丞と敬称され慕われました。濁世をいといながら、それを棄てきれなかったところに人間的な弱さが見られますが、杜甫・李白のような超人には見られぬ独特のこまやかな迷いや空想があります。また楽土への希求においては屈原・陶淵明を継承しましたが、誘惑と解脱の微妙な交錯を繊細に描く点に特徴があります。
 絵画においては、清浄境への憧憬を、水墨の味を極度に生かして表現したので、唐人は淵微・幽深・重深といってその妙を尊びました。明代以後いわゆる南宗文人画の祖と仰がれますが、それは現世を享楽しつつ隠遁を楽しむ、洗練された文人の理想を、王維がはじめて表現し実践したからです。