関中八景図

 陝西省は、中国のほぼ中央部にあって、東は山西省、南東は河南・湖北省、西は甘粛・四川省、北西は寧夏回族自治区、北は内蒙古自治区に接し、周囲の地形は、東には黄河が南流し、南には大巴山脈が東西に走り、西には六盤山脈があり、北にはゴビ砂漠がひかえています。
 こうした自然境界をもつ陝西省の内部、すなわち西安を中心とする付近一帯は、秦嶺と北嶺の2つの山脈によって、南北と西が囲まれ、そこを東西に流れる黄河の支流渭水は、宝鶏以東で大河となり、西安の東で河を合わせてからは、東西約150q、南北約40qにおよぶ一大沖積平野を展開しています。
 秦漢の時代には、東は函谷関(河南省・霊宝県南西)、西は大散関(陝西省・宝鶏県南西)、南は武関(陝西省・商南県西)、北は蕭関(甘粛省・環県北、環江の上流)で固められていたことから、関中と呼ばれ、四塞要害の地でした。
 四川省と甘粛省との境を東に走る岷山山脈が、陝西省に入って秦嶺山脈と呼ばれて東に伸び、関中の南壁を成しているので、南山とも名付けられています。この山脈の東部を大華山・小華山といい、中部を終南山、西部を太白山と呼んでいます。岷山山脈は陝西省の西部から一脈を分かち、断続起伏して北東に走っています。これが北嶺山脈です。この北嶺山脈中に、唐の太宗の陵墓である昭陵のある九嵕山、高宗の乾陵のある梁山、徳宗の崇陵のある嵯峨山をはじめとして、陵墓のある諸山が西から東にそびえたって、黄河に達しています。これが関中の北西壁をなしているので、南山に対して北山、渭水の北にあるので渭北山脈とも呼ばれています。
 関中の地は、このように恵まれた地勢と温和な気候であるとともに、土地が極めて肥妖で、また景勝の地でもありました。したがって、古くは周の都の鎬京、あるいは秦の都の咸陽をはじめとして、隋唐に至るまで断続的に通計1160年の長い間、帝王の都城として栄え、また群雄争奪の舞台ともなりました。
 このように関中は景勝の地でしたが、その中でも特に
  華嶽僊掌  覇柳風雪  曲江流飲  雁塔晨鐘  咸陽古渡  草堂烟霧  太白積雪  驥山晩照
を関中八景と称しています。この呼び方は明代からと言われています。
 《関中八景図》は、この関中八景の8枚の画と、それぞれの詩と題詞を、左右が反対になってつぎつぎに刻され、最後に八景図を刻した理由や時・題額の筆者・立碑者などが刻されています。
 八景の画と詩は同じ大きさで、縦が20p、横が33pの長方形で、題詞の1字は1p前後の大きさで、詩の方は、これよりも大きく約2倍です。篆書の題字は、だいたい縦が15p、横が8pで堂々としています。
 詩の文字は、1字1字の造形を、確実に均衡の上に成り立たせ、左右の払いの運動が、長く遠くまで押し出されています。全体としては明るくさわやかな楽しさに加え、さらにこまやかな情味をたたえています。
 《関中八景図》は、周王褒の跋によると、康煕19年(1680)1月16日に、閭山の朱集義が画と詩を書き、題字の篆書は馮繍、立石者は岐陽の趙iと漢中(陝西省南鶏市)の晋文Uです。
 朱集義については、跋によれば、詩画に兼長しているということで高く評価されていますが、他書には記述がないようで、またその伝も見当たりません。