関帝詩竹図

 竹のたくさん生えている庭園を「竹の園生」といって、皇族の異称になっています。それは前漢(前206〜8)の文帝の子の梁の孝王が、御苑に竹をたくさん植えて、「修竹園」と名付けた故事によります。常緑で、根がはびこって繁茂し、天に向かって伸びようとし、節をもっていて、しかも柔軟で力強い竹そのものの特性、こうしたものを王室の繁栄と結び付けたものと思われます。

 この図の右下に
  弘治貳年十月十八日。楊州淘河獲出環鈕。共董二斤四両。其文曰漢壽亭候之印。
   不謝東君意  東君(=劉備)の意に謝するところはない
   丹青濁立名  丹青(=はっきりとして疑う余地のないことのたとえ。=関羽) 独り名を立てる(=忠誠をつくしている)
   莫ケン弧葉淡  ケンする(=口偏に兼という字。密かに恨む、疑う)ことなかれ、弧葉淡き(=竹の葉に例えて身の潔白をいう)を
   終久不彫零  終久(=永久)に彫(=印面。すなわち『漢寿亭侯之印』)は零(=すり減ら)ず
と刻されています。
 詩の意味は「漢寿亭侯の印の彫りが久しく摩滅しない」、すなわち使用していない、裏切っていないと伝えています。
 この五言四句の一首20字がすべて竹の図の葉の形で刻されています。すなわち竹の葉のあつまりを大きく上から5つに分けたとき、最上の葉の集まりのなかに、右から「不謝東君意」の5文字が刻されています。次の葉の集まりのなかに、右から「丹青独立名」の5文字、次の第3番めの葉の集まりのなかに、「莫ケン弧葉淡」の5文字、次の第4番めの葉の集まりなかに、「終久不」の3字が、つづいて最下の葉の集まりのなかに右に「彫」、左に「零」の2字が刻されています。

 「弘治貳年十月十八日。楊州淘河獲出環鈕。共董二斤四両。其文曰漢壽亭候之印。」とは、「明の第10代孝宗の弘治2年(1489)10月18日に、楊州の淘河から環鈕が取り出された。2斤4両を蔵し、それには『漢寿亭侯之印』と刻されている」とあります。
「漢寿亭侯」というのは、三国時代の蜀漢(221〜263)の初代昭烈皇帝として帝位に就いた劉備の武将であった関羽の封号で、「漢寿」は四川省昭化県の南を指します。また画題にみえる「関帝」は、関羽の敬称です。
 関羽(?〜219)は、あざなを雲長といい、河東の人です。劉備に仕えて生死を共にせんと誓い、その部下として武勇の名が高く、建安5年(200)、曹操に捕えられて厚遇されました。白馬渡の戦いでは、曹操のために戦い、袁紹の将の顔良を斬り、その恩にむくいました。この時、劉備に送った密書が、この《詩竹図》だといわれています。
 その後、劉備のもとに帰り、建安13年(208)赤壁の戦では曹操軍と戦い、これを大敗させました。これ以後も劉備のために勇戦しました。劉備が益州攻略の時、関羽はとどまって荊州を守り江陵にいましたが、魏・呉両軍の挟み撃ちを受け、建安24年(219)呉軍呂蒙の将の馬忠のために捕らえられ、殺されました。
 後世、宋代以後は軍神とされ、関帝廟に祭られ、広く民間に信仰されています。洛陽の関帝廟の門にも、全く同じ《詩竹図》がはめ込まれています。また、『三国志演義』には、その武勇が数々の物語となって叙述されています。

 また図の左側には「康熙歳次丙申冬月 杜陵二曲居士韓宰。臨石立於長安之碑林」と刻されています。「康煕歳次丙申(康煕55年、1716)の冬月、杜陵(陝西省、長安城南東)の二曲居士と号する韓宰が、石にむかい臨んでしたため、長安碑林に建てたものである」とあります。